布団大好き!

日記や所感など

瀬尾まいこ『図書館の神様』を読む

 

瀬尾まいこさん、めっちゃ好き。好きな作家さんランキング作るなら、堂々一位は橋本紡さんで、二番目に好きなのが瀬尾さん。瀬尾まいこさん。

『図書館の神様』は中学生か高校生の頃に学校の図書室で読んで、それからずっと心に残っていた作品。たぶん2回くらい借りたんじゃないかな。最後に読んでから確実に5年以上経った今、本屋で再会したこの本を自室の本棚へ迎え入れました。

 

話の筋としては瀬尾さんお得意の、穏やかな日常がゆっくりと流れていく中で主人公の内面がグラデーション状に変化していくもの。

主人公の早川清は名前の通り清く正しく生きてきた新卒一年目の国語講師の女性。清く正しく、何事にも全力で。中学生の頃の皆がいい加減にこなす掃除や小テストでも手を抜かず、部活のバレーにも全力投球。

そんな清の清く正しくまっすぐな人生はある時突然の終わりを迎える。バレー部の主将として部員を叱責したところその部員が翌日自殺してしまい、周囲から孤立してしまう。今まで築き上げてきたものがすべて崩れ、逃げるように遠方の大学に進学した清は当初の夢であったバレーを続ける未来を捨て、「日本人が日本語を勉強するという一番楽そうな道」という理由で文学部に進学し、「バレー部の顧問になれたらいい」といういい加減な理由で国語講師として近くの高校に就職する。

本編の時間軸はこの高校に赴任したところから始まる。目指していたバレー部ではなく部員が一人しかいない文芸部の顧問になった清。文学なんて興味もないし面白くもない。そう思っていた清だったが、たった一人の部員である垣内君との交流を通して、世界の見方を変えていく。

 

あらすじここまで。

 

何がいいってこれ「許し」の話なんですよ。高校生までの清は杓子定規で、自分で決めたルールを守ることが最善であると考えていて、そこから外れるものを許さない。ルールに乗っていたころはルールを守らない周囲を許さないし、自分が自分の決めた正しさから外れてしまってからもずっと自分のことを許さない。そんなに自罰的になる描写はないんですけど、描いていた正解の道を外れてしまった自分を肯定しないんですよね。

それが物語が進むにつれて、清さや正しさの周りにあるもっと鮮やかなものに気付くようになる。シュートが決まった後ハイタッチすることを、以前であれば「早く持ち場に戻って次の守備に備えたい」と義務のように捉えていたのが、「チームみんなでないスプレーを喜び合うのって楽しいね」みたいに思えるようになる。いつしか清は中高生の頃に思い描いていた道を外れて地方の高校で教師をしている自分を肯定できるようになっているんです。それと共に生徒との交流も少しずつ楽しく思えてくる。バレーを続ける未来がなくなったからとりあえずなんとなくしょうがなく選んだだけだった教師生活が、しっかりと色を持ったものになっていく。

物語の最後、何か劇的な出来事があるわけじゃないんですが、この物語が許しの物語であることを強く思わせるものが登場します。自殺したバレー部員の母親からの手紙です。

「今、あなたが添える花は、とても永く花を咲かせています。一ヵ月に一度、花を替える必要はないような気がします。一年に一度、あなたの時間が空く時だけで十分です。いえ、そうしてほしいのです。」

失敗した部員を責め、彼女が自殺したことによって周囲から責められ、自分でも自分のことを許せず、投げやりな日々を送っていた清。高校生の頃に清を責めた同級生はきっともう清のことも自殺した女の子のことも忘れてるけれど、他の誰でもない部員の母親からはっきりと許されることで、清は前に進んでいけるんではないでしょうか。

 

特に印象に残った部分が何か所かあるので引用させていただきます。

 

まずは文庫版p.88。文芸部員の垣内君に詩を書かせて、それを読んだ清の感想。

垣内君を作っているどの部分がこんな言葉を生み出させるのだろうか。垣内君のどういう経験がこの言葉と結びつくのだろうか。

この感覚、めっちゃわかるーーと思った。どんな言葉をどんな風に繋いでいくかってその人が今までどんなことを経験して、どんな言葉を体の中に入れたかで形作られていくじゃないですか。どんな本を読んでどんなことをして何を感じたか。だから文章には人となりが表れると思います。同じ感覚を清(というか瀬尾さん)が言葉にしていて、無性に感動していた。

この文章を書いている私は、いったいどんな人に見えるんでしょうか。

 

次に、p.112.不倫相手である浅見さんと空港で飛行機を眺めるシーン。パティシエの浅見さんが、昔はパイロットになりたかったと語る。

「(略)。成長すると自分の世界がわかってくるのかなあ。昔は自分にだって乗れるはずだって思ってたから、飛行機が好きでパイロットに憧れてた。子どもの頃は何だってできるって思えて、何だって大好きになれたけど、そのうち、自分の特性みたいなのが見えてきて、飛行機になんて乗れないことがわかってしまう。そうなると、ギターとかケーキとか自分で動かせる範囲のものを好むようになっちゃうんだよな。そうして、好きなものもできることもどんどん削られていくんだ」

ここ読んで泣く大人、無限にいそう。

中学受験も文理選択も大学受験も自分の選択肢をゆるやかに削り定めていたけど、就職活動で本当に自分のできることって限定されたし限定したと思う。自分が何者になるかを決めてしまった私にとって浅見さんの言葉は痛い。子どもの頃は何だってできるって思えた。母親に「rnxは頭がいいし美人だからN●Kのアナウンサーとかになれるよ」と言われれば「●HKのアナウンサーになりたい」と素直に本気で思えた。でも今は私はアナウンサーになるには足りないものが多すぎることを知っている。だから就職活動の時に目指そうとも思わなかった。そういうことだ。

でも大人になってできないことが増えるって必ずしも視界が狭まっていくことじゃないと思うんですよ。たくさんの大きな夢が目に入ってくることはもうないけど、世界の解像度みたいなものが上がったと思う。「働く大人になる」というふわっとした将来像が、「色んな会社と関わって、ITでビジネスを変える人になる」程度に細かくなる(こうやって書くと笑っちゃうくらいざっくりしてて頭が悪そう)。コンサルタントとして色々なキャリアの積み方があることだって知っています。コンサルタントになるって決まったって道が一つに定まったわけじゃなくて、もっと細かいところで自分が何に興味を持って何を大切にして働いていくのか、選ばなきゃいけないことはまだまだたくさんある。選択肢が狭まっていたらむしろ楽なんじゃないのと思う局面の方が多いです。

パイロットにもアナウンサーにもなれないけど、幸か不幸か私の未来はまだ広がりを持っていると思います。

好きなのか好きじゃないのかわかんないままずっとしがみついているバレエも、自分の力で動かせない要素が多すぎるけど、自分の手で動かせないものに向き合い続ける苦しさをまだ味わい続けたい。

 

これは書くか迷ったんだけど、p.162。主人公の清が頭痛持ちなんですが、彼女が頭痛で寝込む場面。ちなみに、瀬尾まいこさんの作品には頻繁に頭痛持ちの主人公が登場します。ご本人も頭痛持ちなんでしょうか。

ただの頭痛兼腹痛なのに、手を握りしめて、不安そうに見つめてくる浅見さんがおかしかった。

 だけど、そのおかげで、私は元気になった。薬ほど即効性はないけれど、頭痛も腹痛も吐き気も少しずつ小さくなって消えていった。本気で心配してくれる他人がいれば、薬なんて必要ないんだって、その時知った。

これもめっちゃわかるってなった。私も頭痛持ちでよく彼氏(今は元がつきますが)の家で頭が痛くなって寝てたことを思い出しました。痛みでぼんやりしながら寝ていると彼が頭を撫でてくれるんですが、そうされると無性に安心して、気付いたら眠ってしまっているんですね。起きると痛みは治まっていて、近くで彼がゲームとかしてるの見て安心する。

安心。

彼と過ごした時間、私が抱いていた感覚の大部分を占めるのがこの安心感だったなとふと思いました。全力で無防備になれた。

あんな風に自分の一番柔らかい部分を曝け出す相手は今いなくて、それでも今けっこう楽しくて、幸せで、でもたまにあの頃が懐かしくなったりね。

 

まだ続きます。これはちょっと笑ってしまった場所。垣内君と清が図書室の書架の整理をする場面、p.172。

「この図書室、本の並びが悪いと思いませんか? そもそも日本十進分類法なんて、今の高校生のニーズに合っていない。探しにくくて仕方ないでしょう。教科別に並べ替えましょう」

これは 図書館情報学専攻の人間として笑わざる得なかった。日本十進分類法。Nippon Decimal Classification、略してNDC。図書館学や図書館情報学を学んでいれば絶対に誰でも知っている基本中の基本。今の日本の図書分類はこれに基づいて行われています。学問領域を10に分類してその大分類をさらに10の中分類に分けて…と階層的かつ排他的に学問領域を分類していき、そこに本を当てはめる。現代の図書館利用者のニーズに即していないというのはよく言われている話で、これに代わる分類法も提案されてはいますが、実体を持った本を扱う図書館では書架分類という概念を捨てることができず、また今までNDCでやってきた歴史があるためにわざわざ変えるコストを取ることもできず、多くの図書館では結局NDC分類で配架、ないし排架しています。

瀬尾まいこさんってもしかして司書教諭の資格とか持ってらっしゃるのかな。

でもこの分類法の議論って決着がつかないまま消えていくと思うんですよね。今後50年、100年先の未来を考えた時、紙の本っていうのはいずれなくなっていくと思います。全部電子書籍になっていく。電子書籍になれば一つの本を一つの場所に置いておく必要もなくなるから、排他的に分類する必要はなくなる。もう検索とリコメンデーションができれば良くなっていく。分類じゃなくてタグ付け、主題付与が人の情報探索を支援するようになる。本棚を回って目についた本を手に取る行為は推薦システムが支援するようになる。と、思います。良し悪しは別としてね。

そもそも電子書籍が主流になる時代になったら「本」という情報パッケージの概念がどこまで保たれているのかも疑問ですけどね。

柄にもなく図書館情報学の話をしてしまった。こうしてみると私ってけっこう図書館情報学が好きなのかもしれないですね。

 

最後に、卒業を控えた垣内君が文芸部の活動についてスピーチする場面。p.186。

「文学を通せば、何年も前に生きてた人と同じものを見れるんだ。見ず知らずの女の人に恋することだってできる。自分の中のものを切り出してくることだってできる。とにかくそこにいながらにして、たいていのことができてしまう。のび太はタイムマシーンに乗って時代を超えて、どこでもドアで世界を回る。マゼランは船で、ライト兄弟は飛行機で新しい世界に飛んでいく。僕は本を開いてそれをする」

これ本質情報ですよ。違いますか? 物語に触れるとその物語の中で生きている人間の生を追体験することができる。自分の持っていなかった感情に触れることができる。そして、物語に対して心動かされることで自分の中にある感情を知ることができる。自分は何にどんなことを思う人間なのか。ベッドの上で、寝転んで本を読みながら、目新しい自分に出会うことができる。

文学の良さってこれだよね。

 

読み終えて感じることとして、やっぱり瀬尾まいこさんめっちゃ好き。正直地雷だなって思う作品もあるんですが(そしてそういう作品に限って私の推し作品より世間から評価されていたりする)、総じて瀬尾まいこさんの持つ世界のやさしさが好きです。

 

以上