どこへ
一昨日の金曜日、発表会は専科で出たいと先生に宣言した。先生は「だったらもっと頑張るんだよ」と厳しい顔で言ったが、断りはしなかった。なので3月から専科クラスを増やす。
2月は金曜の専3、土曜のD4、D5クラスで週3クラスだったが、3月からは月の専1、金の専3、土のD4になる。土曜のポアントクラスをやめることになる。
2月の一か月で自分が専科クラスのレベルにどれだけ足りていないか嫌というほど自覚させられた。専科クラスで発表会に出ることがどれだけ無謀かはよく分かっている。でも次の発表会は私にとって最後の発表会となる可能性が高い。だったら今頑張るしかないと思った。
全力を尽くせなかったことを死ぬまで50年後悔し続けることに比べたら、あと半年と少し、恥ずかしい思いをしながら泣きながら頑張るくらい何でもないと思った。
ぼんやりと、自分はいつになったら月曜の専科に行くんだろうなと思っていた。行きたいとぼんやり抱えていた思いが言葉になったきっかけはその日のバーレッスンだった。先生に脚を持ち上げられて「Dクラスならその高さでいいけど、専科クラスならここまで上げる!」と言われて、カチンときたのだ。つまり、先生は今わたしのことを専科クラスの人間として扱ったということでいいんですよね?そういうことですよね?だったら専科クラスの人間として発表会に出させてもらいますからね、と。
専科クラス並の動きを要求されて、それに向かって努力するからには、ゴールになる舞台は専科クラスだ。
ここ数日は食欲が落ち着いていてとても良い。火曜まで暴飲暴食が止まらず過食嘔吐にまで至っていたけど一日寝てゆっくり休んだら普通になった。むくみも取れて顔がすっきりしている。
もう少し体脂肪率を落とした方が筋肉が綺麗に見えるので、引き続き頑張りたい。
いつだったか、「自分は常に自分の予想を超えた場所にいる。今の自分は一年後の自分が想像もしていなかったような状況にある。私は自分で自分の行き先を予測できない。今年の私は私をどこへ連れていくんだろう。一年後の私はどうなっているんだろう。私はそれが楽しみだ」というようなことをどこかに書いた。
あとひと月半で誕生日を迎えるにあたり、同じことを思う。今の私は21歳の私が予想していなかった状況にある。きっと来年もそうなっているんだろう。
私は生きていくのが楽しくてしょうがない。私という物語を読み進めていくのが楽しくてしょうがない。今はただ、結末を考えずに目まぐるしく動く展開を楽しんでいたい。
バレエ
今日のレッスンで先生が語っていたことに心の底から共感したので、記憶が新しいうちに書いておきます。
足が痛い、足の形がバレエ向きじゃない、股関節が閉じてる、そういうのは関係ない。それを言い訳にした時点で終わり、何も成長がない。お客さんには関係ない。美しくなりたかったら努力するしかない。周りの子の方が骨格が良くて羨ましいと思ってもそれは努力によってカバーするしかない。毎回毎回自分の体と向き合ってここがダメ、ここが違うと意識してやって積み重ねていって初めて改善する。
そういうのは嫌でただ楽しいだけのバレエをやりたいんだったらそれでいい。頑張って本物の踊りをするかただ何となく踊るのか、道は2つしかない。本物になりたいなら努力しなきゃいけない。
踊っても踊っても満足することがなくて辛い練習ばかりで、バレエなんて楽しくない時間が99%くらいある。それでも残り1%、レッスンで体が上手く動いた、舞台で拍手を浴びた、そういう時の喜びを知ってしまったら、もう戻れない。努力するしかない。だからバレエが好きな人はみんな馬鹿だ。こんな辛いことをたった一瞬の歓びのために耐えるなんて正気の沙汰じゃない。それでも、あの歓びを知ってしまったら、もう戻れない。だから努力するしかない。
これは私が日々考えていることそのものだ。たった一瞬、ほんの一瞬の快感のために、足の皮がむけて爪が変色して泣きそうなくらい痛い思いをしてやっている。莫大なお金と時間を捧げている。一度でもステージに立ったらもう忘れられない。スポットライトに焼かれて熱くなる感覚、そのために私はこうして踊っている。それがバレエなのだ、と先生は言った。許された気がした。私は確かに、バレエをやっているのだ。バレエが好きなのだ。狂おしいほど好きで狂おしいほど苦しくて身が千切れそうになっても離れられないのだ。
明日も私は足の皮をむいて踊る。
愛
私が人生のバイブルとしている物語に「輪るピングドラム」がある。
特に好きな台詞のひとつとして、今日はこれを取りあげたい。
ねえ、生きるってことは罰なんだね。私、高倉家にいる間、ずっと小さな罰ばかり受けてたよ。(第24話Bパート)
この台詞の後に続くのは高倉家での他愛ないやり取りだ。冠ちゃんはだらしない、晶ちゃんは口うるさい。一度聞くだけだと、何がどうして罰なのか、と思ってしまう場面だ。
私はこれを以下のように解釈する。陽毬は晶馬に選ばれ、高倉家に迎え入れられて初めて「生きる」ことができた。愛の果実を分け与えられ、生命を得た。陽毬は高倉家で生きていたのだということをこの後の台詞は表している。
その上で、この作品において、生きることは選ぶことであり、同時に、選ばれないものを生み出すことだ。そして選ばれないことへの恐怖を引き受けることだ。ひとを、愛を、運命を選ぶ。陽毬もまた選び、選ばれながら生きてきた。陽毬はそれを罰と形容したのではないか。選ばれなかった経験のある陽毬には、選び選ばれる市場に乗ることが、生きることが苦痛だったのではないだろうか。
では自分の意思で選ぶことをしなければ選ばれないことの痛みがないのかといえば、そういうことでもないのだ。誰とも果実を与え合おうとしない人間は、キスだけをやり取りして、心がすり減ってしまう。心が凍りついて消えてしまう。
痛みを賭して誰かを本気で愛さなければ、ほんとうのさいわいは、果実は、得られないのだ。
私はこの作品を折に触れて思い出す。愛することの痛みを知った今、陽毬の台詞をもう一度なぞって思うのは、私もまた痛みに溢れた愛の世界で生きたいということだ。心臓から血を流し、体中が裂けてボロボロになっても、それでも私は果実を与えたい。与えられたい。
私、あなたとなら、未来永劫呪われたっていいわ。
あるいは、
僕の愛も、君の罰も、みんな分け合うんだ。
と、そう言える人でありたい。
専科
先日このような記事を書いた。
鬱々としている。
こんな記事を書いておいていきなりどうしたと思われそうだが専科クラスを受けることになった。なったというと他人事みたいだが、私が自分の意思で先生に頼んだ。
絶対苦労する。足が痛くなると思う。爪が割れると思う。
幸か不幸か専科クラスにいられるのは大学を卒業する2020年3月までだ。だから、1年間しか頑張れない。
1年頑張れば終わりとも言う。
バレエ人生最後の1年間、恥をかいて、泣いて、苦しんで、限界まで頑張ってみようと思う。それしか救われる道がないと思う。
失った10年。永遠に戻らない、失うには大きすぎた時間。
それでも、永遠に戻らないなら、それを肯定するしかない。
バレエが好きで、心の底から好きで。苦しくても辛くても離れられない。どうしようもなく好きだ。ステージの光を浴びて、焼かれて死にたいくらい好きだ。
そのことに気付くための10年間だった。
最後の1年―つまりはわたしの新しいバレエ人生―が、来週から始まります。
自分が好きな人と自分のことを好きな人
「自分が好きな人に自分が好きな人と自分のことを好きな人どっちと付き合ったらいいって言う?」という質問箱にちょっと萌えてちょっと書いてみたって話。
「自分が好きな人と自分のことが好きな人どっちと付き合ったらいいんだろうね」
「は、?」
突然話を振られて、間抜けのような声が出た。香奈美を見ると、彼女は指先をキーボードの上で休ませながら、ディスプレイ越しに俺を見ている。客のピークを過ぎた生協でテスト勉強を始めてから随分経っていた。気付けば周囲にん大勢いた人は疎らになっていて、隣ではさっきから賢太がソファに寝そべって背中を静かに上下させている。右側から射し込む西陽が香奈美の顔の四分の一だけをオレンジ色に照らしていて、熱そうだな、と思った。
「だから、」
「うん」
「どっちがいいのかって話」
香奈美はゆっくりと目を伏せると、そのまま蛞蝓のように机に突っ伏した。柔らかそうな髪の毛がすぐ手を伸ばせば触れそうなくらい近くに来て、思わずどきりとする。三センチ。平常心でいるには近すぎて、触れるにはまだ遠すぎる、三センチ。厄介な距離だ。さっと手を伸ばして軽々と頭を撫でたりできたら良かったのに、俺はいつもこうしてタイミングを逃す。
「先輩にアプローチして拒まれるのがつらい」
香奈美が突っ伏したまま呟く。
「つらいね」
「でも諦められない」
「そうだね」
「そろそろ私は満たされたい」
「みんな満たされたいと思いながら生きてるね」
当たり障りのない言葉で会話を紡ぐ。耳触りだけやたらに良いような言葉だけでいくらでも時間を稼げる。俺はそうやって言葉遊びみたいなことをしながら蚊帳の外にいるふりをして、その実、往生際悪く視線だけはたった一人の女の子に釘付けになったままだ。
勝ち目があるのかは、分からない。無いことはない、と思うけど、有る、とは言いきれない。無かった時に失うものが大きすぎて、だったら踏みとどまっていた方がいいと外堀を固めて一年。外堀は埋まったのに堀を渡れないでいる俺はテーブル一枚分の距離で情けなくも満足してしまっている。テーブル一枚分離れた場所から、先輩はやめておけよと虚しい抵抗の声を上げる。代替案は示さない。俺と香奈美の共通の知り合いであるところの先輩は多才な人で、先輩にも後輩にも慕われていて、華やかさでいったら絶対に俺は勝てない、と思う。
「自分が好きな人と、自分のことを好きな人、どっちと付き合ったらいいのかなあ」
「禅問答だな」
「シンプルな話だよ」
「やっぱり禅問答じゃん」
「きみならどちらを選ぶ?」
「そうだねえ」
考えるふりをして自分のノートの画面を見つめた。「片思い 友達」とGoogle先生に聞いてみる。役に立ちそうな答えはない。ため息をついて「前者じゃないの」と答えた。
俺はまたこうして、タイミングを逃す。
「きみがそう言うなら頑張ってみるよ」
香奈美はもう勉強を続ける気はないようで、ノートを閉じて机の上の荷物をまとめ始めた。荷物を整理するのに身を捩ると、先程まで頬に当たっていた西陽が逸れて壁を照らす。
「帰る?」
香奈美が立ち上がる。賢太が思い出したようにもぞもぞと身動きした。香奈美はちらりとそれを見て、すぐに視線を戻した。
「俺はもう少し勉強する」
「そう、頑張って。それじゃあね」
香奈美を見送りながら俺はまたため息をついた。上手くいかない。今日も意気地無しで楽しそうなふりをして外堀の外で踊っているのか。堀の外で踊っている冴えない男のイメージにそう語りかける。傍から見ていると哀れなんだろうなと思う。こんな奴誰も見ていないけど。
頭を抱える。死にたい、またやってしまった。
「バカだね~」
賢太がだるそうに体を起こして笑った。
「やっぱり起きてたんだ」
「お陰様でちっとも寝られませんで」
「いい夢見てろよ」
「お前は現実を見ろ」
現実。現実ってなんだ。外堀を埋めるだけ埋めて一歩も踏み出せない現実か。
眉間に皺を寄せて黙っていると賢太がさもおかしそうにクツクツと笑うので腹が立って今朝方押し付けられたばかりのどこかの企業のチラシを投げつけたら軽々と受け止められる。
「香奈美ちゃんはお前に引き止めてほしかったんだろ」
「希望的観測はやめろよ」
「希望的観測なんかじゃないな、現実を見ろ」
「そんな現実はない」
そうだ。そんな現実はない。俺は拒まれるのがつらい。失うものが怖い。諦められない。全てを失って奈落の底に突き落とされるくらいなら、満たされないまま踊っていた方が良い。
「あーあ、可哀想に。そしたら香奈美ちゃんは先輩の彼女になっちゃうね」
「別に俺は構わない」
「構うくせに」
俺はそれには答えず開きかけのファイルを上書き保存して閉じた。もう勉強する気は起きなかった。鞄にノートを仕舞って立ち上がる。もう外が暗い。冬至を過ぎたとはいえまだ日が落ちるのが早い。
「逃げるのか」
「逃げるぞ。どうせ俺の人生は逃げの人生だ」
「気取っちゃって」
無視して手を振って食堂を後にする。誰もいない。俺はどこで遅れてしまったのか。どこで間違えてしまったのか。外堀を埋める前にさっさと飛び込めばよかったのか。そうだったとしてもそんなことは出来ないけど。無駄じゃないけど結局は無為に過ごした一年を振り返って、一体どこで、とただ思う。
「あー、最悪だ」
俺はいつもこうしてタイミングを逃す。
犬の命日
犬を飼っていた。名前はベッキー。同名のタレントが有名になるより前からそう名付けられていた、ビーグル系の雑種の犬。
母が保健所行きになる所を拾って、しばらく浦和の家で飼われて、母が越すタイミングで父方祖母の家に行った。
私より1歳年上で、物心つく前から遊んでくれていた。小学生になってからは散歩も行っていた。
ベッキーの周りにいた人々の中で、一番ベッキーに心を寄せていたのは勿論拾ってきた母だ。一番長い間世話をしてくれたのは祖母だけど、ベッキーは母の犬だ。あとは、ベッキーが小さい頃に面倒を見ていた母方祖父母。たぶん、その次が、私。
よく懐いていたと思う。ベッキーが私に、じゃなくて、私がベッキーに。暇さえあれば散歩に行ってブラッシングをしていた。なんなら糞だってちゃんと拾っていた。
私はもうすぐ22になる。ベッキーは生まれて23年。もちろんずいぶん前に亡くなっている。
ちょうどこのくらいの寒い時期で、最後は瞳が白く濁って、鼻も利かなくなり、頭を撫でても僅かに体を動かす程度にしか反応しなかった。私が物心ついて初めて生き物の死を見つめた時だったと思う。悲しかったなあ。ベッキーがいなくなったことを受け入れるのに1年近くかかった。
命日なんてもう覚えていないけれど、もうすぐ亡くなって8年だ。私が物心ついてからベッキーとお別れするまでの時間と同じになった。ベッキーと過ごした時間の割合は私の人生の中で、小さくなるばかりだ。そのことが、ただ寂しく、今でもあのつやつやした毛皮に被われた形の良い頭の感触を、思い出している。
バレエを早くやめたいね
クラシックバレエを好きかと聞かれたら、答えに窮すると思う。見るのは好きだ。自分が踊るのは、どうだろう。好きだ、なんて即答できない。なら私はなぜこんな年にもなってしぶとくバレエを続けているんだろう。バレエは私の何なのか。
私の、この醜くてどろどろした感情に、何と名前を付けたら良いのだろう。
バレエを早くやめたいと思っている。毎週土曜は朝から憂鬱な気持ちになる。夕方になると、今週はなんと理由をつけて休もう、と考えている。勉強が忙しい。頭が痛いなどなど。18:20には家を出なきゃいけないのに、16:30くらいまでほんとに休む気持ちでいる。休もう休もうと思いながら、17:00くらいから何故か化粧を始め、辞めたい、早く辞めてやると思いながら予定通り18:20に家を出る。これを毎週馬鹿みたいに繰り返している。
やめたいのは本気だ。クラシックバレエなんて正直言って、正気の沙汰じゃない。爪先立ちなんて痛いし、爪が割れるし、毎日ストレッチしても全然筋肉が柔らかくならないし、ストレッチする時間が取れない事も多いし。お金をかけても上達しないし。自分がダメな人間であることを常に突き付けられ続けるし。最悪だ。
それでも私がバレエをやめられない理由は、小学生の時にベストを尽くさずにやめてしまったことに納得できていないことと、たまに、ほんの一瞬だけ、自分の納得できる動きができた時の快感を忘れられないこと、だと思う。おそらく。理想とのギャップで吐きそうになるくらい苦しい瞬間を幾度も重ねた先に、ほんの一回だけ、理想に通じる道が光るような瞬間がある。私はそれをずっと求めている。
バレエは好きではない。バレエを踊っている時間は、それでも、バレエのことを真剣に考えていて、バレエを踊っている自分を見つめている。プリエ、伸ばす。ルルベ。そのままパッセ、アン・オーでバランス、キープ。軸を寄せていく。脚の爪先から手の指先まで一本の糸を通す。足が痛い。汗が流れて気持ち悪い。自分が醜くてしょうがない。こんなことを、何年続けたって、永遠に自分が納得しないことをどこかで確かに分かっている。
大人クラスの周りの人たちとモチベーションに大きなギャップがあること。それでも、自分は専科クラスに行くには圧倒的に足りないこと。専科クラスでやっていくだけのモチベーションはもうないこと。全て分かっている。フェッテができない。ダブルピルエットができない。脚が開かない。私は専科クラスに行けないと満足しないのに、永遠に行けないであろうことが分かっている。落としどころが分からない。どこへも行けない。バレエは私にとってやり残した仕事のようなもので、それが、やればやるほどゴールが遠ざかっていって、終わらない悪夢のようだった。
トゥーシューズのリボンは私を囚える足枷のようだ。私はそれを自らの手できつく巻く。舞台の上で解けないように。命が尽きても立ち続けられるように。自らの意思で、きつく巻いて、その跡が、いつまでもくっきりと残っている。
やめたいやめたいと思いながら、それでもやめられない、やめたくない、まだ終わることができない。自分の思い通りにならないので嫌だ、どこまでも頑張れるから好きだ。苦しい。つらい。私は何のために踊っているのか。誰も私が踊らないことで困らないのに。この感情に好きという名前を付けることができない。好きだなんて言えないし言いたくない。でも、嫌いなものを時間とお金を削ってやるわけがない。好きと嫌いを混ぜて、煮詰めて、10年寝かせた恐ろしく醜くてどろどろしたこの感情を、なんと呼べばいいのか。
早くバレエに納得して、綺麗な思い出にしてやめてしまいたい。
どこまでも筋肉が伸びて。耳元で風の音が聞こえるくらい早く回って。誰よりも高く跳んで。音楽と一つになるんじゃなくて、私が音楽になって。私はその瞬間に消えたい。