布団大好き!

日記や所感など

雨の日

 

天気予報によれば今晩から雨みたいですね。夜までバイトの私は傘を持ってきてないんですけど。どうすんのこれ。

まあでも雨って良いですよね。植物も人間も生きるためには水が必要だし。今年の梅雨は雨が少ないって誰か言ってましたね。まあでもこれ、みんな毎年言ってる気がするんだよなあ。花粉の飛散量とかポケモン映画みたいに毎年毎年変わらないものを新鮮な感動で受け止めているんだと思うんですよ。

 

雨は好きですか。私は好きです。白い靴を履けなかったり、お母さんの靴を借りられなかったりするのは不便だけど。あと前髪がぺしゃんこになったりくせ毛がいつも以上にくるくるするのも困るけど。御多分に漏れず低気圧で頭が痛くなったりもするけど、それも含めて雨が好きです。

雨の日って外を歩くと濡れるし寒いし前髪はぺしゃんこになるし体調も良くないし、外に出て活動するのに向いてないんですよ。晴れの日は家にいると「家で何もしないで過ごしていていいのかな」みたいな罪悪感に襲われるけど、雨の日は「もう雨だし今日は家でいいでしょ」ってなる。良くないですか?雨でも降らないと家にいられないのってどうなのよ、という話はさておき、休み方を忘れちゃった私たちが雨を理由に家でぼんやりする時間を持てるんだから雨って本当に有難い。

 

そういえばバイト先の好きな人が前に飲んだ時、一旦集中すると切るのが苦手だから切り替えの意味で煙草休憩するって言ってなるほどなあって思いました。私にとって煙草って完全に自傷行為なんですけど、煙草をトリガーにしてリフレッシュするのってえもいわれぬ良さがある。エモだねえ。真似したいんですけど、煙草吸うと翌日くらいまで息がうまくできなくなるんですよね。これはもうリフレッシュも何もあったものではないってなる。

でも息が苦しくなるから煙草がダメなのかって話になるとそれって必ずしもそうじゃなくない?とも思う。たとえばさっきの雨が降ると頭が痛くなる話を例に出すと、雨の日に高確率で頭が痛くなるという現状があった時に雨と頭痛の間に因果関係を見出すのはまあ妥当な推論だとは思うんですけど、じゃあ雨が降らなかったら頭が痛くならなかったって本当に自信を持って胸を張って言えるの?っていう。雨が降らない日も頭は痛くなるからね。単に自分の不摂生が悪いだけかもしれない。たまたま手近に見える原因らしきものに責任を押し付けちゃうのはよくないんですよ。

だから煙草を吸って息が苦しくなったとしても煙草を吸わなくてもそうなっていたかもしれない。だったら煙草吸っても良かったじゃんってなる。レッツ煙草、ビバ煙草。我ながら論理展開がめちゃくちゃになってきた。しかもこんなことを書いておいて、煙草吸わないんですよ。お金もったいなくない?煙草よりパルテノの方がおいしいもん。

 

めちゃくちゃなブログを書いていたら6月ももう終わりです。思考能力を失って久しいので6/15くらいからずっと毎日バイトか大学かなんやかんやで外にいる生活をしています。完全に家が寝るだけの場所と化してる。この間久しぶりに家で数時間フリーになったんですけど、何をしたらいいのか分からなくて、部屋の片づけをしようと思って部屋のど真ん中で立ち尽くしていました。片付けをしようって思い立った途端に部屋の眺めが奥行きを失うというか、解像度が下がるというか、目に入るものから何の情報も読み取れなくなるんですよね。シンプルに片付けの能力がない。まあさすがに明らかにこれはゴミでしょってものは片づけましたけど。

人間には休息が必要であるっていうのがどうしても理解できなくて、どこまで動き続けたら本当に限界になるんだろうっていうのを試しています。限界って自分の足で歩けるうちは限界じゃないですよ。もうむり歩けない~つって大体の人間はノロノロ歩くじゃないですか、いやそれ歩けてるじゃんってなる。完全にぶっ倒れることって本当にあるのかなっていうのが今の関心ごとです。今のところ倒れる気配はない。アイアンマンかよ。

まあでも流石に疲れたなって思います。動作が緩慢になって全盛期の7割くらいのパフォーマンスになってる感じがする。だからHPが0になる前に体が省電力モードになった段階で休んで体力を回復させるのというライフハックが多くの人間に好まれている理由はなんとなく理解しました。

 

そういえば6月中にシステムを一通り流すのが卒論の標準的な進捗ペースらしいですね。私のPython、もとい先輩に手伝ってもらったPythonは元気にエラーを吐きながら今日も動いています。これどうなるんかな。

 

では、午後も頑張っていきましょう。

 

 

 

つながりたくない時もあるよね

 

例によって例のごとくPythonを走らせながらこれを書いています。あとjwaveも聞いてる。なんというマルチタスクPythonは動かしてるだけなのでタスクじゃないんですけどね。

今日も9-17バイトの後レッスンがあったので正直たぶん身体はクタクタなんですけど、疲労がある一定のラインを超えると布団を整えて電気を消して寝る体制に入る気力体力がなくなるのでその場で寝るに至るまで起き続けるエラーが発生するんですよね。これは致命的なバグだと思うんですけど、人生もPythonデバッグができないのでみんな死ぬしかないじゃないってなる。

 

今日は森絵都さんの『ラン』について語ろうと思っていたんですがバレエの後にぼんやり聴いていたjwaveが無性に良かったのでjwaveの話をします。

 

普段敢えて口に出すことはあまりないんですがラジオを聞くのが好きです。とは言ってもこっちにいる時はjwaveしか聞かないのでjwaveが好きなのかもしれない。でも車で遠出して地元のラジオを聞くのも好きだし、山間の高速道路でハイウェイラジオを聞くのも好きです。

車に乗ると十中八九ラジオ、もといjwaveを聞く。残りの一、二は母親の英検Pass単熟語1級です(ここ4年くらいずっと聞いてる)。あまり自分で選んで音楽を流すことはしないなあ。そもそもあんまり音楽聞かないんですけどね。

ラジオはあんまり真剣に聞きません。これ好きって言っていいのかな。いや聞いてはいるんですけど、二日前に聞いたラジオの内容とかほぼ覚えてない。あの面白いんだか面白くないんだか真面目なんだか不真面目なんだか分かんない絶妙なトーンの話をぼんやり聞き流しながら車を走らせるのが好きです。それで気付いたら音楽がが流れてくる。自分じゃ絶対に選んで流さない曲だけど、不思議と心地よく耳に流れ込んでくる。あれはもう最高のリコメンデーションシステムですね。

自分で何の努力をしないでもただ黙って座っているだけで何となくいい感じの気分になれるの。ラジオ、めっちゃ良くないですか?これを無料で聞けちゃうって本当にすごい。どこに投げ銭すればいいんだろう。

 

ラジオをぼんやり聞いてる時のテンションってカフェとかで近くの人の話をぼんやり聞き流してる時のそれに近い気がします。自分に全く利害関係がない人たちの会話。自分に一切関係のない人の喜怒哀楽を風景として眺める。彼らにとって私って何者でもないんです。

思えば小中高の頃も、昼休みの教室で誰とも話さずにぼーっとしながら教室のはしばしで交わされる会話を聞くのが好きだったなあ。(誤解を招かないように言っておくと、ちゃんと友達はいました。)(わざわざ書くあたり必死かよ)

やっぱり何者でもない人になりたい。他の誰でもない私として生きる限り私は私に関わる人々から課せられる役割から逃れられないわけですが、無性にそれが息苦しくなるんですよね。誰からも何からも求められない瞬間を感じたい。最近はそれがラジオ聞いてる時なんですね。

ラジオ聞いてる時って孤独なんですよ。私ラジオは一人で聞くんです。バレエの帰り、車も人もいない夜道をぼんやり走りながら聞く。もう超孤独。だからラジオ聞くすなわち孤独の図式が私の脳に刻み付けられている。家族で車乗ってる時にjwave流すこともあるけど、jwave聞いてる時ってみんな黙ってるんですよ。家族で聞いてるんじゃなくて一人で聞いてる人が4人同じ場所にいるだけ。だからやっぱり孤独。一人。

 

さらざんまいって欲望で繋がることが生きることです、みたいな結論じゃないですか。輪るピングドラムは愛し愛されること、誰かにとっての何者かになることで生きられる、みたいなことをメッセージとして発信している。これってもう生と愛の本質なんですよ。本質なんですけど、めっちゃ息苦しくないですか?息苦しいというか、生き苦しいというか。ああ良いこと言ったなあ。日付が変わるくらいまでキーボードを叩いてると冴えてきますね。

何が言いたいかって言うと、確かに生きていくためには誰かにとっての何者かでいなきゃいけなくて、誰かと繋がってたくて、そりゃまあそうなんですけど、たまには一人になりたいよねってこと。そんで手のひらに収まるちっちゃい画面でいつでもどこでも誰とでも繋がっていられちゃう私を孤独にしてくれる装置がjwaveなんですってこと。

 

ちなみになんで今日のjwaveめっちゃ良いじゃんってなったかというとマイケルジャクソン特集してたっていうのと、あとちょうど私が駐車場に着く頃に流れてたズーカラデルのyesって曲のサビの歌詞がめっちゃ良かったんですよね。うろ覚えだけど、「見えそうで見えない答えが どうにもならない苛立ちが 小さくて見えない魔法が 未だに脚を突き動かす」みたいな。なにぶんバレエの帰りだったので泣きそうになってしまった。いやマジでなんでバレエやってんだろうな。でももうやめたいって思わない限りやるしか選択肢ないしね。

 

そんなこんなでPCのキーボードで書くとめちゃめちゃ文字数を食ってしまった。総文字数2000字ちょい。こんな長さの文章10個書いたら卒論一丁上がりなんだと思うと、教授陣にこのブログのURL送り付けてそのまま卒論合格にしてもらいたくなるね。

 

明日も9時からバイトなので推敲せずにネットの海にぶん投げて寝ます。

 

おやすみなさい。

 

 

初夏の羽田空港にて橋本紡『九つの、物語』を読む

 

いや、読んでないけど。

 

暑さで頭がおかしくなったので毎週火曜の午後の過ごし方が狂っています。

まず六月の第1週は悪名高い大学前無料カフェに行きました。先々週は東京タワーまで歩いて往復しました。先週は天王洲アイルまで歩き、コーヒーを飲んで、モノレールで大学に戻りました。そして今週は自転車で羽田空港に行きました。さすがに疲れた、狂ってる。

東京タワーくらいで満足しておけばこんなことにはならなかったんだよな。

このまま来週もハードルを上げていくとそのうち空きコマで飛行機に乗りかねないので来週は無難に肉とか喰いたい。

 

ここ数週間で自分の大切なものについてよく考えています。バレエ、アルバイト、就職先。何に時間を使い、誰と何をして、どんな文字を読むのか。それで思い至ったわけではないのですが、今日は私の一番好きな小説である、橋本紡さんの『九つの、物語』について書こうと思います。

 

題名の通りこの小説は9本の短編から成っています。それぞれの短編のタイトルは近現代文学の題名になっていて、主人公の藤原ゆきながそのお話を読みながら日々色々な出来事に出会い、感じ、考え、心を揺らせながら生きていくさまを描いたものです。文学作品の内容が、本編のストーリーに影を落としていたりもする。

私がこの小説で好きなところは食べ物の描写が丁寧なところですね。物語開始以前に亡くなっていて幽霊として存在するゆきなの兄、禎史はたびたびゆきなのために美味しそうな食事を作るのですが、その描写のなんとおいしそうで、そして兄から妹への愛を感じさせること。そして妹はさまざまな感情を抱えながらも、兄の作る食事や、彼氏とのデートでの食事を味わいます。食べることが生きることの常にすぐ側にあることをはっきりと感じさせるわけです。「食べる」ということに対して非常に真摯に向き合っている。

ゆきなは話が後半に差しかかるある時、生きる気力みたいなものを失っていきます。何も食べられずにやせ細っていく。そこで見かねた兄がゆきなに自らの手から食事をとらせると、ゆきなはそれを食べることができる。幽霊である兄の手によって生かされるわけです。皮肉ですね。おかしいでしょう。自らの手で食事をとることは、自らが生きることを、そしていかに生きるかを選択することであって、それを自分でできないというのはもう死んでいるも同然です。ゆきなは自らの生を肯定できない数週間を過ごします。

食べることは生きること。

物語の最後で、ゆきなは兄との二度目の別れを経験します。幽霊の兄が去るのです。「おまえのことが誰よりも愛おしかった。おまえが成長していくさまをずっと見守っていたかった。でもそれはもうできないから、幸せになってくれ」「お兄ちゃん」手を伸ばした先に兄の姿かたちはもうなく、代わりに疎遠になってしまっていた恋人が現れます。「お兄さんに呼ばれて」。ゆきなは恋人の手によって助けられ、日常に戻ります。兄の手を離れ、兄の力の及ばない世界で、兄ではない人と共に生きていく一歩を踏み出すのです。

生きる気力を取り戻したゆきなのエピローグが印象的です。

「わたしはもう、自分の手で食べ物を食べられる。味わって、飲み込んで、生きていく」

兄の手を借りず自分で食事をします。自分の足で生きていく。

完全にネタバレになってしまいますが、幽霊の兄の存在自体がゆきなの生にたいする罪悪感の表れで、兄の手から食事をとることだけでなく幽霊の兄を認識すること自体がゆきなの自身の生の否定だったんですよね。ゆきなは自らの取り返せない過ちを受けいれ、悲しみを受けいれ、自らの生を肯定する。自ずと兄はゆきなの元を去る。なんかもう構造が完璧に美しすぎて、わざわざ外側から語ることがおこがましいんですが、本当にこの流れがいい。

 

それからもう一つこの話で救いだなと思うのが、兄は消滅したんじゃなくて世界の端々に溶けていったみたいな描写をされるんです。ふと歩いていると兄のような人影が見えるが、よく見ると別の人である、みたいな。だから、なんて言うか、ゆきなの世界は兄に包まれているんです。兄の愛に包まれてるんですよね。わかるかなあ。

 

輪るピングドラムの最後と似たものを感じるんですよね。

輪るピングドラム」の最後で、高倉陽毬は兄達に関する記憶を完全に失います。記憶を失った陽毬の元に、陽毬には見えなくなったサンちゃんがぬいぐるみを届ける。陽毬はそのぬいぐるみが何なのかも分からないまま、腹から覗くメモに「大好きだよ!!お兄ちゃんより」と書いてあるのを見て、涙を流します。サンちゃんは庭の植物が芽を出しているのを見届けて、高倉家改め池辺家を去ります。そこで陽毬の声でモノローグが入る。

「わたしは、運命って言葉が好き。信じてるよ、いつだって一人なんかじゃない」

作中で晶馬、冠葉、苹果が運命について自らの考えを語る中、陽毬はこの時まで運命について語っていません。全ての愛のやり取りが終わり、まっさらだけれども穏やかな世界の中で、はじめて語られる陽毬の言葉。

「いつだって一人なんかじゃない」

これは記憶をなくす前の陽毬から、記憶をなくした陽毬へ、そして観客へのメッセージなんですよ。

記憶をなくした池辺陽毬は、高倉陽毬であったことを思い出せない。認識できない。それでも、池辺陽毬が池辺陽毬であるのは、高倉冠葉と晶馬の愛があったから、かつて彼女が高倉陽毬であったから。彼女の世界の至るところは兄の愛で形作られているのです。たとえば、庭にひっそりと芽を出した植物のように。

 

『九つの、物語』に話を戻すと、そうやって、愛してくれた人が目に見えなくなっても、私たちの世界には私たちを愛してくれた人がずっといるんだよね、みたいな感じがするのが、泣けるんですよね。

わかるかなあ。

 

そんな感じの、『九つの、物語』に関する所見でした。手元に本がない上に最後に読んだの1年前だから台詞がうろ覚えなのは許してね。

ちなみにこれ最寄駅のエキュートのベンチで書いてるんだけどなんでそんなことしてるかっていうと一旦休憩しないと帰れないくらい疲れたからなんですよね。年齢相応の思考力を持ったみんなは田町から羽田空港までサイクリングしようとするのはやめましょう。死にます。楽しかったけどね。あー狂ってたなあ。

 

それじゃあ、家に帰ります。

 

 

 

幸福、愛、生存戦略

 

「さらざんまい」終わっちゃいましたね。「手放すな、欲望は君の命だ」「諦めずに欲望を繋ぐ者だけが、未来を手にできる」など、心臓のいちばん柔らかい部分に刺さるフレーズを多く残した作品でした。まだ感想を完全に言語化できるほど消化できていないけど、生き汚さを全力で肯定する話だったなと思います。

大切なものを諦めない。

「好き」を諦めない。

あの子と、つながりたい。

 

そこで私はいったい何を大切にしているんだろうなとふと思いました。人生は選択の連続であり、何かを選ぶことは他の何かを捨てることである。ということは私がバレエについて考える上で絶対に自覚しているものですが、選択と排除は何もバレエに限った話ではないのです。たとえば、アルバイト。

今コールセンターのアルバイトが本当に好きで。会社の規定で86時間/月しか働けないんですが、制限されるとギリギリを攻めたくなる性格で85.5時間/月くらい働いています。そうすると、最近気付いたんですがお給料が月11万と少しで、これは親の社会保険の扶養を超えるんですよね。

社会保険の被扶養者の資格をどうやって決めているのかが組合によって違うので私が既に外れているのかまだ調整が間に合うのか不明なんですが、ともなく親の社会保険組合がこのことに気づいたら私は終わります。月1.7万の国民健康保険料を払うことになります。本当に終わる。

それでなくとも103万/年の親の税法上の扶養を抜けるラインを超える予定で親の税金を私が代わりに払うのに、社会保険まで払ったら私の実質時給は1000円を下回ります。月86時間働いて、手取りはたぶん100万以下です。おいおいマジかよ、土日祝と平日16-18時は時給1400円やぞ?

 

ここから下はまだ首の皮が一枚繋がっていて調整が効く前提の話です。

上の話から、つまり、「賢く」働くには少し労働時間を減らさなきゃいけないんですよね。ここ数日そのことばかり考えています。

所属チームの実績というのが毎月出るんですが、ここ数ヶ月私はずっと1位です。電話応対件数の絶対数で1位だし、出勤時間は少ない方なので時間対件数にしたら本当に桁違いでトップです。それは私ができるだけ1件辺りの通話や後作業時間を短くするために色々と考えて工夫して努力して成し遂げたことです。ここで問題なのが、後者は私が働き続ける限り1位だけど、絶対数は出勤時間の減少に伴って減ってしまうこと。私はそれが耐えられない。

出勤する、電話をかける、お客様のペインを解決する。実績を伸ばす。

私はそのサイクルがたまらなく愛おしい。

 

学生なんだから働くのはそこそこに好きなことをしなよ、今しかできないことを、と言われます。バレエ、卒論の勉強はきっとそれにあたります。母親との旅行もそうでしょう。でも、アルバイトだって私の好きなことなんですよね。

好きなことを全力でする。

アルバイトが趣味、遊びだと考えると、一日をそれに費やして手元にお金が残らなくても不思議なことではないと思うんですよ。一日遊んだらお金減るじゃん?それがもしプラマイゼロだとしたら、むしろお得な遊びだと思うんですよ。

おかしいかなあ。

おかしいって頭のどこかではわかってるんですけど、納得できないんですよね。

オペレーターの仕事が本当に楽しくて、クレーマーに謝るのが大好きで。可愛がってくれていつも色々教えてくれる先輩が大好きで。社内のシステムを巧みに使いこなして高度な業務に携わり、私が困った時に助けてくれる社員さんが大好きで。この会社に就職したいと思って内定まで取りました。でも、有名大学に入らなくても就職できる会社に入ってしまうのはもったいないし、母親に悪いなと思ったから、やめました。賢い選択です。今の就職先で頑張って、それでもバイト先への気持ちがあったら、転職もできるし。でも逆はできないし。賢いね。私は本当は賢い選択をできる人間なんですよ。

だからオペレーターをやれるのはあと9ヶ月。残りの時間、精一杯働きたいという気持ちがあるのです。

 

いや、おかしいよな。どこがおかしいんだろう。普通の大学生はこういうことにならないと思うんだけど、私はどこで間違えたんだろう。

他になにか大事なものはないのか。趣味は働くこと、それってすごく空虚だと思われる?

 

好きなだけ働いて税金を納めるか、はたまた働き方をセーブして旅行を増やすか。

今日明日辺りでもう少し考えます。

 

 

労働

 

バイトが好きすぎてありえないくらい実績を上げてしまいチームの成果の1/5が私という意味不明な事態に陥っている。休出も急な残業もクレームもドンと来いのアイアンマンっぷりで何かと残業させられてはごめんね、ありがとうと社員さんに労われて自己肯定感の高い高いをしています。

最近は仕事の失敗じゃないことで怒られることの方が多いです。棚を足で閉めるなとか(ごめんなさい)クレーム対応中にニヤニヤ笑うなとか(ごめんなさい)法定休憩時間足りないとか(ごめんなさい)残業しすぎて月度末日に早退する羽目になってあんまり月の半ばで残業するなとか(社員の指示で残業したんですけども……)。

それはそれとして本当に仕事が楽しいので最近無給でいいから仕事したいみたいなメンタルになってて、というかずっとこの仕事をしていたくて、2020年3月には退職しなきゃいけないのが悲しくてしょうがないです。一応バイト先も内定をもらったんですけどさすがに家族の期待とかもろもろ考えると蹴るしかなかった。

 

バイト先への愛が募る一方で本命内定先には全く興味がなくて、配属もどうでもよかったしもはやなんで志望したのかも忘れてしまっていました。

そんな折、今日は内定祝賀式がありました。バイト一番の繁忙日に早退して都内でパーティ、人見知りの私にはけっこうきつかったんですけど、そこでやっと久しぶりに内定先に対して前向きな気持ちになれたので残しておきます。

 

まずは社長の言葉。

社会にさまざまな課題があって私たちはそれをテクノロジーで解決できる、したいと本気で思っている。数年のうちに街中を自動運転の車が走り、荷物はドローンが運ぶ社会になる。本気で信じている。それを実現する。それこそがテクノロジーの企業に入る意義であると。

 

次にインターンの時に面倒を見てくれたコンサルタントの人。なんで私の名前を覚えているんですか?と聞くといい意味で目立っていたからね、と。そんなに発言しなかったので、なんでか聞いたら、

ちゃんと自分の頭で考えている感じがした。指摘に対して、これはこうなんじゃないですかとか考えて返してくれた記憶がある、と。

最近自信喪失していたので嬉しかった。思考力(論理的思考力)を人から褒められることが多いんだけど、意外と、本当にもしかしたら論理的思考力あるのかもしれないとか思った。

 

そういうわけで血迷うこともなくこのまま卒論を書き上げ内定先に就職します。でも、いつか優秀なコンサルタントになって、バイト先の会社の案件やるんだ。絶対やる。必ずあの場所にもう一度戻ります。

 

明日も頑張っていきましょう

 

ジム辞めるなどした

 

行く日がない。平日会員なんだけど平日のうち月水金はバレエだから行く余裕ないし、火は大学。木は休館日。あれ、いつ行くのこれ、ってなった。

そもそも週に3日バレエやってたらもう、いいでしょうよ(今更言うか)。最近レッスンが倒れそうになるくらいハードで毎回死にたくなってるから、これ以上他のところで頑張れないよ。

とりあえず毎日家で腹筋とストレッチだけ頑張る。

発表会終わって卒論提出してからのことはまた考えますわ。

 

もうなんか色々上手くいかなくてやっていけない…。

 

 

就活終了

しました。本当にもう終わりです。

 

色んな意味で。

 

結局本選考を受けたのは内定先、囲われてた某会社、バイト先、の3社でした。バイト先は言わずもがな内定。某会社は落ちました。めっちゃ凹んだし今も凹んでる。超絶鬱です。

 

最近はバレエ週3専科クラス、月86時間バイト、卒論のシステム構築でありえないくらい忙しいです。疲弊しきっています。どんな状況にあっても結局クタクタになる生活をしてしまう自分に呆れ返っています。

自分の優先順位を決めるのがとても下手です。帰宅してから小一時間立ち上がれなくなるくらい疲れていても明日のバイトを休む決断ができません。

自分の生活に関心が持てません。今朝何を食べたかも覚えてないし昨日どの服を着たのかも覚えていない。自分をいたわるために美容院に行ってもどうしたらいいか分からず「こだわりがないし、文句もつけないので、任せます」とだけ言って寝ていました。

なんか本当にありとあらゆることに無関心になっているし何に対しても何も感じられないし何も考えられない。虚無です、虚無。終わってる。鬱病なりかけなんじゃないかとすら思う。

膝の皮を爪で抉り続けて流血していたらバイト先の人にめちゃめちゃ怒ってもらえて人間に恵まれたなあと思いました。

なんかもう本当にどうでもいいし休みたいけど休めなくて体が限界になったところでやっぱりどうでもいいから明日もバイト行こうかなあと思った。どうでもいいけどお金は絶対に価値があると思うし。しらんけど。何も欲しいものないけど。仕事は楽しいので一年後が何も不安じゃありません。