布団大好き!

日記や所感など

選び続けること、つまり捨て続けること

 

人生は選択の連続であり、選択とは選ぶことであるよりむしろ他の選択肢を捨てることだ。

ありえたかもしれない未来の自分。周りの人間。選ばなかったすべてのものを捨てている。

何を選ぶかを決めるより、何を捨てるかを決める方がずっと難しい。

 

 

高校受験でバレエを休む子はけっこういる。スタジオの先生や娘さんはそれに対して「バレエやりながらでも勉強できるよ」「そもそも学歴が全てじゃないよ」「バレエやめるなんてもったいない」と言うんだけど、私は絶対にそれは違うというか、彼女らは分かってないんだと思う。受験は偏差値が10違うと全く別の競技になる。偏差値50台の高校に進学した人の考える受験と偏差値60台の高校を目指す人の受験は全く違う。それを分かったような口調で「できるよ」と言っちゃいけない。ハイレベルな受験は自分の持ってるもの全て捧げて搾り尽くして人間の形をした勉強マシーンになってようやくできるものだと思う。(ここでこのことについてこれ以上語るのはやめておく)

一人の人間として社会で金を稼いで生きていくとしてバレエがその手段になる人はバレエを習っている人の中でごくごく少数だ。大体の人はいずれかのタイミングでバレエを捨てる。早いか遅いかの違いだ。いつの時期に捨てるかはその人が他の何をどれだけ優先したいかで決まってくる。外野がとやかく言っていいことじゃない。

どれだけ多くのことを両立できるかも人によって違うし外から見えているものって本当に一部だ。

だから誰もバレエをやめる子を責めちゃいけないし、責めないでほしい。いつか捨てるんだ。

 

 

 二次元の世界に生きるアリは平面の世界が水で満たされれば行き場を失う。三次元の世界に生きる私たちは上方向に逃げることができることがわかる。でもアリにはそれを認知することができない。実行することもできない。

同じようなことが人間同士の認知にも言える。人間同士は絶対に分かり合うことはできない。何を分かっていないのかを分かることもできない。

あなたはもっと頑張れるなんて本当は誰も言えない。頑張れるかどうかなんて誰かが決められることじゃない。それを言っていいのは本当に頑張れるかどうか自分には実際のところわからないんだけれども相手の背中を押す言葉としてそれを言いたいんだと自認している人だけだ。

 

 

昨日、中3の子が受験のためバレエをやめた。「絶対戻ってくるんだよ、待ってるからね。戻ってくればすぐに身体は元通りになるから」先生の言葉を聞いて10年前の自分を思い出した。まったく同じことを言われたな、と思った。もう戻ってこれないよ、と思った記憶がある。

「同じこと言われたな」少し泣きそうになりながら椿ちゃんに言った。

椿ちゃんは「本当に戻ってきたじゃん、こうして」と笑って言った。

「遅すぎたかもしれないけど、でも、確かにそうだね。戻ってきた」

椿ちゃんには救われてばかりだなと思う。

 

しかし、まあ身もふたもない言い方をすれば私は一度完全にバレエを捨てている。戻ってきたとはいえ中高生と同じ体になることは絶対にできない。捨てたことをなかったことにすることは絶対にできない。

私はバレエを捨てて勉強の道を選んだ。今から思えば中高生の頃、バレエやる余力あっただろと思うんだけど、あの時の自分の主観ではもういっぱいいっぱいだった。片道1時間半の通学はまだ体が出来上がっていない中学生にはそれなりに酷なものだったと一般的に認められるものだろう、と思いたい。頑張れたはずだと言うだけなら簡単だけど事実頑張れなかったのだからそのことだけは認めてやってもいいんじゃないだろうか。

そして、最終的には今の大学に進学した。勉強に専念した結果だと嘯いても許される大学だ。

人より少し早くバレエを捨てて勉強を手に取っていなければ今の自分はなかったかもしれない。それは責められるようなことじゃない、と思う。バレエを選ばなかった私には、私の正義があった。バレエを選ばないあの子にもあの子の正義がある。それは誰かが否定していいことじゃない。絶対にそうだ。

 

バレエが好き、かもしれない。これだけ執着しておいて、かもしれないなんて、そんなのどうなってんだよってよく言われるけど、本当はわからない。ただ諦めることができなかった。一度は離れたけど戻ってくる程度には、気持ちがあった。うまくいかないと悔しい。思い通りにいかないのが嫌だ。なんで好き好んでお金と時間をかけてこんな苦しい思いをしているんだろうってよく思う。それでも、今やめたくないと思う。私がこんなに心を動かすのはバレエだけだ。

バレエが私を人間の形にしているなと思う。だから今は人間らしく泥臭くみっともなくしがみついて食らいついて足掻いて苦しんでやろう、と思っている。

 

 

昨日の言葉

 

人によって骨格、筋肉の柔らかさが違う。甲を出しにくい脚、高くあげやすい脚、上げにくい脚、色々ある。だから戦う相手は自分。常に今の自分よりも高い位置を目指す。難しいことだけど、できないと思ったら終わり。できないと思ったら一生できない。でもやり続けたら。とにかくできないと思ったら終わりだから絶対に諦めてはだめ。

 

これな。

 

できないと思ったら終わり。できないと思うことは努力の放棄、甘え。そう思います。「できない」と言われると「本当に限界まで努力を尽くした?できないと言いきれる根拠は?やりたくないだけでは?」と思う。

正論だよ。正しい。そしてこの考え方は私を成長に導いてくれる。

でもね。

「できないよ」と投げ出し、諦めることが、時には必要だったと思うんです。努力を続けることは、できないことを認めることができない弱さの表れでもあったんではないでしょうか。挫折を受け入れられず、「もっと努力すれば、できるはず」と頑張り続けてしまう。そして幸か不幸か、私はこれまで、頑張った結果目標達成してきた。

だから頑張ることをやめられない。できないことを受け入れられない。歯止めが効かない。できない自分を許せない。倒れるまで止まれない。倒れたら「できなかった」と言える。それ以外に「できない」と言うタイミングを知らない。言う勇気がない。

それはすごく危ういことなんじゃないかなあ、と思う。

 

まあ、普通の子は、こういうこと言われて「ああ、頑張らなきゃ!」と思って、でも自然と手を抜いて結果ほどほど頑張った感じになって、良かったねって終わるから、こういう言葉がけはいいと思うのよ。こんなスパルタ演説をまるっと言葉通り受け取るキチガイ、そうそういないからね。

 

ガス欠

 

本当の本当に体力切れになって動けなくなって倒れる以外の休み方を知らないの馬鹿だし非効率だなって思うけどやめられない。皆どうやってsustainableな頑張りをしているんだろう。

中学受験の時期より前の記憶があまりないので中学受験の時期から自分の人生を振り返ってみると

中学受験期(とにかく頑張る、1日10時間くらい勉強してた)→中学入学~高2(なにも頑張らない)→高3(とにかく頑張る)→大学受験後~入学(ずっと寝てる)→大学(通学、勉強、バイトで予定が詰まってなかった瞬間がない)

という感じで0か100か、みたいな人生を送っている。0はこれから先の50年くらいは許されないので、100でいるしかない。それで、90くらいで頑張り続けられればいいんだけど、私の場合は常に120くらいで頑張っていきなり0になり、少し休んでまた120で頑張るみたいな生活をしてしまうのが最近の問題なのだ。

バイトとか大学とか、そういうマストな予定があれば起きて化粧なんかもして出かけられるのに、休みの日は起きられない、起きて朝ごはんを食べてもだるくて動けない。家で勉強できない。

最近この傾向が今まで以上に顕著になってきていて、昨日はバイトから帰って夕飯を食べた後床で座って寝ていた。床はよく眠れた。一昨日の水曜日は1週間ぶりに外に出る予定もなければ家で時間に追われることもない日だったんだけど、全身がだるいとか通り越して痛くて、朝ごはんのあと15時くらいまで寝てた。異常かよ。

ある意味プロジェクトベースで動くコンサルタントという職業に向いた体質なんじゃないかとも思うけど、休み方を覚えて大学を卒業したいなあ。

大学1年の頃、キャンパスが近くなれば生活が楽になると思っていた。2年になったら全然そんなことはなかった。2年の時は、3年になって授業とバイトを減らしたら暇になると思っていた。全然そんなことはなかった。3年の時は、授業がなくなって就活も終わったら暇になると思っていた。4年の今、大学は週1、就活もほとんどなくなったのに過労芸人を続けている。忙しい原因は自分の外にあるんじゃなくて自分の気質そのものにあるんだろうなというのがようやくわかってきた。自分の存在がブラック企業、ブラック人間。いつまでこの生活続けるんだろうなあ。面白いからいいけどね。さっき休み方を覚えたいと書いたのは本当だけど忙しい生活って一番楽ちんかもしれない。

 

 

最近は月86時間くらいバイトしていて(疲れている原因はそこにあるのかもしれない)、バイトで頭が埋まっている。うっかり好きな男性社員ができてしまったので少しでもその人に褒められようと頑張っていたら4か月連続で業務効率チーム内ぶっちぎりトップに輝いてしまった。なお別に褒められてはいない(そんなに頑張らなくていいのに、とは言われる。褒めてくれればいいのにね)

この間の月曜日は嬉しいことがあった。月曜日はバレエがあるから17時上がりにしていて、お客様対応とかで1730くらいまで残業していた。流石にそろそろ帰るかと思いながらあちこちのシステムを落としていたらその好きな人から「rnxさん今かけるものある?」と声をかけられた。

「ないです(だって今から帰るところだから)」と答えると「じゃあAさん(私の隣の席のパート)と二人でこの書類チェックしてれる?」と書類を渡された。申し訳程度の抵抗に「それいつまでですか?」と訊くと「いつまでとかはないけど明日にはマネージャーに渡したい」と言うので、観念して「わかりました」と書類を受け取った。

Aさんは別の業務に時間を食ってしまっていたので結局私一人でやった。とにかく早く帰りたい一心でめちゃめちゃ集中して仕上げ、書類にミスがないか調べる作業だったんだけどしっかりミスも指摘して「できました」と渡すと「どこまで終わった?」と。

「いや、全部ですけど...途中まででよかったんですか?」「いや、そうじゃないけど...一人で全部できたの?流石だね」言いながらページを捲って私が指摘した箇所を見る。「そうそう、これはこうで...こんな細かいところまでよく見てんね、流石だね、すごい」その人はめったに褒めてくれないから嬉しかった。「そんなに褒められると照れるんですけど」「いや本当にすごいよ」私の上り時刻どころか定時もとっくのとうに過ぎていたけど嬉しかった。

そのあと残業報告書を提出したら、それを見た彼が笑って「うん、正直知ってた。rnxさんが17時までなの正直知ってたけど、17時なんだろうなーって思いながら頼んだ」と言うので、「じゃあなんで頼んだんですか」と訊いたら「え?終わらせたかったから」と悪びれもせず言うから完全に惚れてしまったよね。客観的に見たら完全にパワハラ上司でしかないんだけど、悪戯っぽく笑った顔にメロメロになってしまった事実はもうどうしようもないわけですよ。私がその人を好きなことは完全にばれてて、だから私はその人の頼みを絶対に断らないだろうなという目算もあり、かつ私の処理能力があれば(全部終わるとは予想してなかったみたいだけど)かなりの量が片付くだろう、じゃあ頼んでしまおうという風に都合よく利用されたのが嬉しかった。私の好意に付け込んでいいように使ってくるその人がたまらなく好きだ。

なんかこうやって書いてみるとその人のヤバさと私の性癖のどうしようもなさが際立ってウケるな。

死んだ肉体の全身の血管にアドレナリンだけ流し込んで動かしてるような毎日だからこんなささいな幸せでどうしようもなく舞い上がってしまうんだよな。

 

 

今日は金曜日、バレエだ。日中はオフだった。御多分にもれず死んだようにごろごろしていた。過食気味だったけど多分維持カロリーくらいに収まっている、と思う。残り2時間で少しでも卒論の作業を進めたい。

 

 

感動

 

最近の私は機械みたいに生きていてつまらないなと思う。生きていない。

常に時間に追われていて次にするべきことが決まっていてそれをてきぱきと片付けている。すばらしい。でも暇になると何をしたいのか分からなくなる。寝たいとも思わず休みたいとも思わず、いっそ仕事してこの虚無の状態を意識しないでいる方がいいとすら思う。そしてぼんやりと漫画アプリを眺める。

食べることもそうだ。食事の準備も食事もタスクと化していて効率よく、短時間で目的を達成するように動く。作業のようにものを口に運ぶ。食べている時ふと我に帰って、目の前の食べ物のことをまったく意識していないことに気付く。そのために食事から満足感を得ることがなく、過食の原因はそこにあると思っている。

何を食べたいのかわからない。ダイエットとかそういうのを抜きにして何でも食べられるとして何を食べたいのか考えると何も思い浮かばない。おいしいものならたくさん知ってる。これから一か月かけても食べきれないくらい知ってる。でも自分が今この瞬間に食べたいものは分からない。ないのかもしれない。

感情がない。楽しいとか嬉しいとか好きとか嫌いとか嫌だとか心地よいとかそういったものがすべて自分の思考の外側、非常に表層に近いところで半自動的に起こっている気がする。心が動かない。場の流れに合わせて条件反射的にそれらしいものを返している。感動というよりも反射に近い。反射だからなんでも言えてしまう。「それ本気で言ってるの?」と言われるような冗談も言うけれど、最後に本気で何かを語ったのはいつだろう、と思う。

虚しいなあという感想だけが本当に自分のものであるような気がして、でもその感想すらもどこか他人事で、私はどこへいってしまったんだろうと思う。どこにいてもどこにもいない。常に上の空。何を考えているのか分からないなあ。何を考えているのか。

バレエを好きになってやっと人間らしくなれたと思ったんだけど目の前のことに一生懸命になりすぎて自分自身の姿が見えなくなってしまった。Mさんに言われたことがずっと頭の中でこだましている。自分の幸福論。わたしの幸福はどこにあるのかな。

 

birth

 

インターネッツの海に個人情報を垂れ流すのはいかがなものかと思うが、先日22歳の誕生日を迎えた。22歳というと19歳「ラストティーン」や20歳「ハタチ」なんかと違ってもはや特別な言葉で祝う歳でもない。ゾロ目だなあと思う。来年は素数だなあとか言ってるんだろう。どちらかといえば四月生まれの私にとっては、年齢そのものよりも大学生活最後の1年の始まりとしてこの歳をとる瞬間を認識してしまっている。

 

何か特別なことをしたかと言われればこれほど特別じゃない日もなかった。朝から大学に行って授業を受け、ゼミ教授との面談を切り抜け、茶道の稽古に出た。偉い。偉すぎる。

昼は白金の方にあるイスラエル料理店へ。期待していたほどおいしくはなかったが素直においしいなと思った。フムスやベーグルに物珍しさを感じる人なら行く価値があると思う。

午後は少し奨学金の申請の準備を始めた。相変わらず父たる人の甲斐性のなさに脱力したが、私が被害者になればなるほどのちのち私にとっては都合が良くなるので耐え。

茶道の稽古に出たら同期から誕生日プレゼントを貰った。やたらキラキラしているこの人はなぜか私と仲良くしてくれる。なぜこんなつまらない私と仲良くしてくれるのかなと思い続けて4年目、ありがたい繋がりをこれからも大切にしたい。仲良くありたい。好きだよ。

 

以前どこかに「私は常に自分の予想を超えている。来年はどんな自分になっているのか楽しみだ、きっと期待を超えているはずだ」と書いた。どこだったかな、おそらく去年の誕生日に書いたと思うのだけど。

一年前の私よ、きみの生きざまは変わらないよ。

今の私は、一年前の私が想像もしなかった姿になっているよ。

 

就活はなかなかうまくいって、いい感じに囲われたりなんかもして、

コールセンターでバリバリバイトして、

大手外資系企業から早々に内定を得て、

彼氏であった人と別れて、

専科クラスに入って、専科クラスとして発表会に出ようとしていて、

TOEICはなぜか930点、

これだけ並べると(彼氏と別れたこと以外は)なんだかとても充実してる人のように見えるね。

 

充実してるかしてないかはさておき全部想像もしていなかった。

だから、きっと一年後も、同じことを言っている。

この先数年はそうなのかもな、とも思う。

願わくば、私が私を、よりよい方向へ連れていきますように。

 

一日一日の積み重ねが、私を未来へ運んでいく。

今日もわたしは元気に歩く。

 

あしたはなにして遊ぶ?

 

 

化粧品について

覚書。

 

・ベース

ラロッシュポゼBB。石鹸落ちで肌に優しいのに一定のカバー力があるのでこれ一択。2018年の12月ごろから使い始めたので暑い時期の持ちがちょっと不安だが、駄目そうなら同ブランドの色が入っていない下地を試してみようと思う(色がない分油分が少なくて持ちがいいだろうという期待)。

あとお金ができたらm.m.m.のスムージングベース買う。鼻の油田対策。

 

普段はBBの上にパウダー。キャンメイクのマシュマロフィニッシュパウダーをずっと使っていたが、ようやくストックを全て使い切りそう。なおまだセザンヌのフェイスパウダーがあるので今度はそれを使う。全部使いきったら毎日パウダーファンデ生活をしてもいいかなと思ってるし、それかチャコットやNARSのフェイスパウダー買ってもいいかもしれない。

春茶会ではもう少しつるんときれいな肌を作りたいので、dプログラムのパウダーファンデを近々買う予定。

 

・ハイライト

キャンメイクのグロウフルールハイライターがラメ感控えめでよかった。セザンヌのパールグロウをつけて自分はラメが目立ちまくることがわかったのでこのくらいがいい。それかセザンヌのマットなハイライターでもいいくらいかもしれない。

 

・シェーディング

チャコットの602一択。他に語ることはない。

 

・アイブロウ

ペンシルで目印を書いて隙間をパウダー。ペンシルはいつも出先で急に化粧直しをしたくなった時に買ってしまうINTEGRATEの。パウダーはずっとなくならないexcelのパウダーを使っていたけど、昨日容器が壊れたので捨てた。確かまだキャンメイクのパウダーがあったはずなのでしばらくはそれ。

キャンメイクもなくなったら定番のKATEかヴィセのパウダーが欲しい。

 

・アイシャドウ

ルナソルのジェミネイトアイズを愛用している。ルナソルの他のパレットとかSUQQUとかTomFord BeautyとかDiorとかのアイパレットが気にならないといえば嘘になるけど、ルナソルのアイシャドウが今すごくお気に入りだからなあ。

 

・マスカラ

キャンメイクのカールキープ透明マスカラをつけて毛先だけヒロインメイクのロングタイプ。自まつ毛に恵まれているのでこれでいい。

 

・アイライナー

黒でにじまなければなんでもいい。キャンメイクでもいい。

 

・チーク

今はexcelの多色チークのブロッサムピンク。ゴリゴリの青ピンクだが最近ずっと一番濃いローズピンクだけ使ってるので次に買うチークはローズピンクだなと思う。キャンメイクとかセザンヌとかちふれみたいなこてこてのプチプラでいいけど、少しお金を出してヴィセとかコフレドールとかでもいいかもしれない。この間CHICCAのチークTUしたけど意外なことにあまり感動しなかった。

 

次に何を買うか悩んでいるのはフェイスパウダー(パウダーファンデ)とチークだなあ。他はもう選ぶ余地がない。アイシャドウも順当に行けばもう在学中買わなくていいくらいだと思う。たぶん。まあ買うけど。

 

辻村深月『凍りのくじら』を読む

 

初読は確か、大学受験が終わったばかりの頃だと思う。

今回は2回目。目まぐるしい季節の変わり目に久しぶりに体調を崩したので寝込みがてらずっと読みたいと思っていたこの本に手を伸ばした。

以下はツイートのコピー。

 

『凍りのくじら』ずいぶん前に一度読んでからもう一度通しで読みたいと思っていて、なかなかその気になれなくて今日に至っていたんだけどやっぱり良かった。ミスリードを誘っている場面をそうと分かって読むと、やはり巧いなと思わざるを得ない。

やっぱり泣いてしまったんだけど今回はなんか、「巧いな」みたいな感情が混じってしまってる分素直な感動から一歩引いた位置に立ってしまってる。初読の混じりけのない驚き、感動、共感、というものって二度と手に入らないんだよな。とはいえ感動という言葉ではもったいないくらい感動してしまった。

「どこにいてもどこにもいない」感覚とか、「物語から全部教わった」みたいなの、何となく共感してしまうな。私も本が好きで大人びてしまっている子どもだったので。

お母さんが亡くなったあと写真集を見る場面とか泣いちゃうよね。たまに挟まれる家族の思い出とかからして趣味嗜好が違ってもすごく愛に溢れる家族で、お母さんは理帆子をとても愛していて、理帆子が受け止めて返すことができない分写真集というかたちで愛を残していて。

あとテキオー灯の場面ね。どこでも生きていけるよ、これの有効期限が切れないうちに自分でなんとかしなさい。君ならできる。

理帆子が本当に一人になってしまう時にお父さんが救い出しに来てくれたんだなあと

なんかもうすごくいい、大好きだこの本。買って自分の本棚に置いておいてよかった。

 

輪るピングドラムを見てきた記憶はもう消せない、『凍りのくじら』の仕掛けももう忘れられない。繰り返し時間をおいて読むことで感じることが変わっていくのはもちろん味わい深いけど、どんな作品に触れる時でも、二度とない初めての感動を大切に味わいたいなと思います。

 

初読の感想は残しておくにこしたことはないよ。私はツイートでこうやって発信するけど流れてしまってだいたいはもう見つけられない。1年前の本の感想ですらもう見つけられず、一方で紙のノートでつけていた中学生の頃の読書記録は今でも手元にある。「紙の冊子」という形態の偉大さを感じるなあ。

 

誰かと繋がりたい、求めたい、求められたい、愛されたい。という人間が人間である限り持ち続ける望みよね。愛の話が好きなんだなあやっぱり。