辻村深月『凍りのくじら』を読む

 

初読は確か、大学受験が終わったばかりの頃だと思う。

今回は2回目。目まぐるしい季節の変わり目に久しぶりに体調を崩したので寝込みがてらずっと読みたいと思っていたこの本に手を伸ばした。

以下はツイートのコピー。

 

『凍りのくじら』ずいぶん前に一度読んでからもう一度通しで読みたいと思っていて、なかなかその気になれなくて今日に至っていたんだけどやっぱり良かった。ミスリードを誘っている場面をそうと分かって読むと、やはり巧いなと思わざるを得ない。

やっぱり泣いてしまったんだけど今回はなんか、「巧いな」みたいな感情が混じってしまってる分素直な感動から一歩引いた位置に立ってしまってる。初読の混じりけのない驚き、感動、共感、というものって二度と手に入らないんだよな。とはいえ感動という言葉ではもったいないくらい感動してしまった。

「どこにいてもどこにもいない」感覚とか、「物語から全部教わった」みたいなの、何となく共感してしまうな。私も本が好きで大人びてしまっている子どもだったので。

お母さんが亡くなったあと写真集を見る場面とか泣いちゃうよね。たまに挟まれる家族の思い出とかからして趣味嗜好が違ってもすごく愛に溢れる家族で、お母さんは理帆子をとても愛していて、理帆子が受け止めて返すことができない分写真集というかたちで愛を残していて。

あとテキオー灯の場面ね。どこでも生きていけるよ、これの有効期限が切れないうちに自分でなんとかしなさい。君ならできる。

理帆子が本当に一人になってしまう時にお父さんが救い出しに来てくれたんだなあと

なんかもうすごくいい、大好きだこの本。買って自分の本棚に置いておいてよかった。

 

輪るピングドラムを見てきた記憶はもう消せない、『凍りのくじら』の仕掛けももう忘れられない。繰り返し時間をおいて読むことで感じることが変わっていくのはもちろん味わい深いけど、どんな作品に触れる時でも、二度とない初めての感動を大切に味わいたいなと思います。

 

初読の感想は残しておくにこしたことはないよ。私はツイートでこうやって発信するけど流れてしまってだいたいはもう見つけられない。1年前の本の感想ですらもう見つけられず、一方で紙のノートでつけていた中学生の頃の読書記録は今でも手元にある。「紙の冊子」という形態の偉大さを感じるなあ。

 

誰かと繋がりたい、求めたい、求められたい、愛されたい。という人間が人間である限り持ち続ける望みよね。愛の話が好きなんだなあやっぱり。