講師、やめました
不良塾講師だったがよく生徒から懐かれた。頭いいとか(それしか世間様に対する取り柄がない)かわいいとか(化粧してヘアセットしてればパッと見そうなる)メアド教えてとか(首が飛ぶからやめろ)とか色々言われたけど一番こたえたのは私の顔を見た生徒がパッと顔を輝かせて先生!と駆け寄ってきた瞬間だ。
やめてくれ、と思った。
私はあなたより10年早く生まれたというだけで、まったく尊敬されるべき人間じゃないんだよ。
そんなことを言える訳もなく、今日も受験の神様を演じてきた。何より、先生という存在に憧れる気持ちは痛いほど分かる。そして今に至るまで私は自分より年上の人間が好きだ。だから、私の生徒を否定する権利がない。
そういった葛藤にいい加減うんざりしたので、次の出勤日が最終日になります。みんなゴメンな、もう私はいないんだ。
今年度私に一番懐いてくれたのは中学受験生の女の子だった。ちょうどもうすぐ受験本番を迎える。自分の中学受験期を思い出して懐かしくなった。
夜の22時まで教室に缶詰にされて半泣きになりながら算数の問題を解いたこと。授業中競うように先生の質問に答えて必死に地位を確保しようとしたこと。おびただしい量の宿題。私より真面目だったのに成績が奮わず落ちていった友達。そして最終的には第一志望にも第二志望にも落ちた私。第一志望の翌日の入試の朝、私を哀れみを含んだ目で見た先生の顔。
小学生の頃の自分って懐かしくて恥ずかしいですね。非常に感受性の強く、良くも悪くも大人びた子どもだったと思います。幼稚園児の頃から発達が早く、周りの子どもより口達者だったけど、まあ、あの頃やっぱり子どもだったなと当たり前のことだけど思う。教え子を見ていると、昔の自分と似ているところがあって懐かしい。どうか私よりもまっすぐ育ってね。そんな道だってあるのだから。
良い意味で狂った生活をしていたと思う。10歳の子どもが1日10時間も塾で勉強するなんてはっきり言って異常だ。異常な環境にいち早く溶け込んで真っ先に毒を吸収していくタイプの私は本当によく狂っていて、髪の毛を食べたり、自分の目にハサミを突きつけてみたり、階段から飛び降りたり、肉が見えるまで自分の皮を剥いたり、本当に元気な自傷行為ちゃんという感じだった。懐かしいな。今はもっと心身健康です。
そうは言っても良くも悪くもあの生活が私を作り上げたと思う。限界まで自分を追い込むことが最善を尽くすことだと信じて疑うことができない。それが良いか悪いかを議論することはできるけど、私が自分を追い込むのが好きだということだけは変わらないわけだから、その点には真摯に向き合ったっていいんじゃないかなと思う。なんだかな。
そんな自己分析のようなこともしていた次第です。
私はくそ講師だったけど教え子のみなさんには幸せになっていただきたいです。幸せを願うだけなら簡単なんだよな。何の責任もなく善人になれる。本当にひどい。私は彼女らに一体何をしてあげられたんだろう?これから先、過去の私の存在が彼女らによく働くことはあるか?
無責任な善人は本当にたちが悪いです。吐き気を催す害悪です。それでも敢えて言わせてもらうなら、幸せになってほしい。私に関わってくれた人みんな。うん。それだけ。
決まってるじゃないか、愛の話だよ
大学の友人にはあまり知られていない話ですが私はアニメが好きです。アニメオタクを自称するほど見てはいないし2016年以降はまったくと言っていいほど分からないのですが、アニメにまったく関心がない人からすれば十分アニメオタクと言われるであろう、そういうゾーンのアニメ好きです。
そんな私が一番好きなアニメは幾原邦彦監督の「輪るピングドラム」(全24話)。輪ると書いてまわると読みます。
これがまた私のような厄介なオタクを惹きつけてやまない難解なアニメで、2周目以降が本番といった感じで考察サイトをチラ見しないと話の構造がよく分からない。私はこういう難解さにたまらなく弱く、3周したあと好きな話をピンポイントで何回も見ています。完全にオタクです。
以下ネタバレを含むのですがこの物語の構造です。高倉3兄妹の話があり、夏目家の話、荻野目家の話、そして荻野目桃果に命を救われた2人の話というのがあるわけです。作中の時点と17年前という2つの時間軸がある。
そして、有名な事件をモチーフにしているだけにそこがフォーカスされがちなのですが、これは愛の話なんですよね。親から愛されなかった子供たちが他の誰かから愛されることによって生かされていく。その生を、つまりは愛を、別の誰かに与えることによってその誰かを生かしていく。愛が巡り巡って最初に愛を分け与えた人間を救う。愛が巡る輪、つまりは輪るピングドラムです。
これは2クールアニメで24話あり、単発アニメの中ではそれなりに長い方ではあります。しかし密度が高いので24話分以上の情報量がある。本当は36話にするはずだったということをどこかで見かけましたが、さもありなんという感じです。
このように情報量の多い難解アニメが好きな私が愛してやまないアニメのひとつが「魔法少女まどか☆マギカ」、知らぬ人はいないまどマギです。
これはすごい。12話であの情報量、あの世界観という作りの細やかさが違う。惚れるほかありません。輪るピングドラムの半分の時間でありながらほぼ同量の世界観とエモーションが入っていてすごい。
もちろん主たる登場人物が少ないとか時間軸が1つとかそういう違いはありますがまどマギの情報密度の高さには本当に惚れるしかありません。同じような言葉を2回も使ってしまうくらい好きなのです。
このように情報密度の高いアニメが好きなので、これからもマイペースでアニメ好きとしてやっていきたいと思います。
という、文字密度の高い記事でした。おしまい。
昔の話
小学生の頃から通学に片道1時間かけていたので距離の感覚が壊れている。普通の人は片道1時間かかる場所は「遠い」と感じるらしいが、私が遠いと感じるのは片道1.5時間を超えてからだ。みんな贅沢だなと思うし、恵まれていて羨ましい。とはいえ元来出不精な私はこのくらいの感覚のバグがなければ本当に引きこもっていただろうし、世の中上手くできているなと思うこともある。
感覚が狂っているので家から1.5時間かかる場所にあった予備校を遠いと思ったこともなかった。気に入って通いつめていた。今日は私が予備校に通いつめた最後の日々の話をしようと思う。
今から思えば本当に頭がおかしいとしか思えないが、入試の後わざわざ予備校に寄っていた。自分の感覚では「帰っていた」という感覚の方が近い。入試会場から直接帰った方が明らかに早かったし入試の後くらい家でゆっくり休んだって誰も責めなかったと思う。それでも私は特に無理をしているという感覚もなく当たり前のように予備校に戻って勉強してから帰っていた。
2016年2月15日は第一志望の入試だった。電車で乗り過ごしてギリギリの到着になるところから始まり、得意の英語が易化し、手堅く点を取りたい日本史も奮わず、本当に最悪としか言いようがない出来だった。お通夜みたいな気持ちで副都心線直通の東急東横線に乗って池袋まで来た。副都心線ホームは丸ノ内線の先にある。長い通路を通って丸ノ内線ホームから駅に上がる景色を、今でも覚えている。
私がなんで家から1.5時間かかる場所にあった予備校に通いつめていたかというと、単純に感覚が狂っていて馬鹿だったこと以外に、そもそもその場所が好きだったからなんだと思う。家みたいな場所だった。家でまったく心を開かなかった私が繕わない心持ちでいられる場所だった。人が良かった。本当にいい場所だった。もう行きたいと思わないけど、幸せだったと思う。
もし、自分の過去の時間をVRかなんかで体験できるようなアトラクションがあったら、間違いなく高校3年生の1年間を選ぶ。特に後半がいい。それか、彼氏と一緒に寝て、一緒に起きるあの時間がいい。私の幸せはもうそれで十分だ。あとの人生は人のために生きたい。私の命を燃やして今まで出会った人が幸せになる世界を作りたい。
元旦
2019年を迎えた瞬間私は浦和にある叔父の家の台所にいました。叔父の家を辞去して千葉県に向かう高速道路に乗った所から目まぐるしい2019年元旦の話が始まります。
「ねえ、このまま館山まで行かない?」
ハンドルを握りながらそう呟いた母の言葉に閉じかけていた目を見開きました。館山といえば房総半島の先端も先端です。私の家は浦和から1時間もあれば帰れる場所にあるので、館山は近くもなんともありません。
正気かよ、という言葉をぐっと飲みこんで適当に返事をして寝て起きたら暗くて寒い所にいました。暖かくて明るい2019年の輝かしい幕開けです。
母は本当に館山まで運転し、目的地である洲崎神社に到着したところで残り少ないガソリンを心配してエンジンを切って車中泊を決め込んだのです。寒い。とにかく寒い。車中泊の用意なんてしていないからカイロもないし、そもそも泊まる予定などなかったわけですから歯ブラシも洗顔料も持ってきていません。生活習慣に対するこだわりが異様に強く潔癖気味である私はこの時点で気が狂いそうでした。暖かく明るい2019年の輝かしい幕開けです。
夜が明けてからクソ寒い中洲崎神社にお参りし、なんとか給油して安房神社に参拝し、帰宅したのは昼前でした。歯磨きとクレンジングを2回繰り返してやっと落ち着いたといった感じですがせっかくの機会だったので洲崎神社と安房神社について記録しておこうと思います。
小さい神社。活気はあまりない。海のすぐそばの山の上にお社がある。祀られているのは鏡。鏡に写る海を祀っているのかと推測したが、正解は不明。
地元の人で賑わっていて穏やかな雰囲気。空気が澄んでいて木の皺や枝の先のような細かい情報までビシビシ目に飛び込んでくる。
木の裏に回ったら根が細かく枝分かれしていて折り重なる人々の地獄絵図のように見えて怖かった。賑わいのある区画から離れた片隅のその周りだけ空気が冷たくて怖かった。
洲崎神社も安房神社もパワーを感じたけども怖くてまた行きたいとはあまり思わない。伏見稲荷もまたそんな感じだった。エンターテインメントとしての神社を楽しむ気持ちはないのにパワーのある神社もまた苦手です。
2019年の目標は体を作ることです。余分な肉をそぎ落とし、私を支える筋肉をしなやかに形作る。人生も、余分なものはそぎ落とし、自分が何を大切にしたいのかしっかり見極めようと思います。
許されて生きている
狼は生きろ、豚は死ねという言葉がありますね。弱肉強食という意味に解釈しているのですが、合ってるんでしょうか。この言葉は私の社会や自分に対する姿勢の中核をなしていました。いました、なんて言うと今は違うみたいですが、今も多分にそういう所はあります。
私は勝ち続けて生きてきました。もちろん小さな失敗は沢山あります。オムツが外れるのが周りの子より遅かった。大学附属幼稚園に落ちました。中学受験では第3志望に落ち着いたし、入学後は落ちこぼれました。友達あんまりいません。
でも、基本的に勝っています。大学附属の小学校から都内の有名難関私立に進学し、落ちこぼれたけども私大最高峰とも言われる大学に進学しました。もちろん棚ぼたではなく要所要所で努力した結果としてこれらの勝ちを得てきました。
そうなると弱肉強食思想が醸成されるのは自然のことでしょう。頑張れない弱いものは地面に這いつくばっていればいいと思います。声を上げない者の意見は無いのと同じ、声を張らない方が悪い、など。
その価値観に疑問を抱いたのはここ数年のことです。自分よりも優秀な人間に囲まれれば私は当たり前のように無能でした。しかし私の周りの優秀な人間は私を踏みつけることはせず、寧ろ手を取り背中を押し、私ができるようになるまで導いてくれさえしました。本当に優秀な人は優しいのです。
私は目に見える形ではっきりと許されて初めて、自分が今まで多くの人に許されて生きてきたことを自覚しました。みな許されて生きているのです。私もまた色々な人を多少なりとも許しながら生きていたことにもまた気付きました。人間的成長です。でも私は許しが足りないと思いました。もっと広い心で、大きな器で、生きていきたいと思います。地面に蹲っている人に立ち上がる意思があれば、手を取り、腰を掴んで引っ張り上げます。誰にも許されずに生きることが決してありえないのなら、私もまた、周囲の人を許しながら生きていかなければならないし、そうありたいと思うのです。
愛
全てを許し、愛す、完璧な愛は、無関心と同義である
愛の反対は無関心だが、究極の愛もまた無関心と繋がっており、愛と無関心のグラデーションは円環になっている
ぬるいトマト、ポテトの細切り
冬よりも寒い季節を知っている。
6月。一本の電話によって北国へ呼び戻される。最低限の荷物だけ持って高速に乗る。
蒸されるような日々を送っていたはずが、休憩を取るたびに外気が冷たくなっていく。仙台のあたりで叔父がエアコンのスイッチを切った。
青森中央ICを降りる直前、祖父の夢を見た。和室で祖父が冷たくなって寝ていた。覗き込んだ拍子に膝が頭に当たって、祖父が目を開ける。「痛い」「ごめん」
「いいんだよ」
実家*1の玄関を開ける。叔父が一番先に入る。私達はおずおずと後に続いた。奥の和室から低くくぐもった呻き声のようなものが聞こえ、叔父のものかと身構えた。祖母だった。
時に周囲を圧するほどに気丈な祖母が、蹲って呻くようにすすり泣いていた。
6月だというのにひどく寒かった。本当に冗談でなく、季節が違った。街が閑散としていたのもその寒々しさに拍車をかけた。もちろん一番は、私たちが一番の精神的支柱としていた祖父を永遠に失ったことだった。
おまけに雨まで降っていて、本当に身も心も寒かった。雨が降っていただけまだマシだった。これで暖かい天気だったりなんかしたら、私たちは自分の心の沈みをどこに持っていったらいいのか分からなかっただろう。そのくせ、葬式の日と出棺の瞬間だけは綺麗に晴れて、ただひたすら寂しかった。
つらかった。
今でも祖父に生きていてほしかったと思う。負担の大きい治療から解放されて、やっと楽になったね、と思うことでどうにか精神の平衡を保っているが、わがままを言うなら生きていてほしかった。聞いてほしかったことが沢山ある。
成績優秀その他もろもろの理由で奨学金を取ったこと。
運転免許を取ったこと。
バレエの発表会に出たこと。
祖母の着物を着てお茶会に出たこと。
夢を見つけ、実現への足掛かりを掴んだこと。
私の成長を心から喜んでくれた祖父に報いるために頑張っているのに、伝える手段がない。まだ感謝の気持ちを伝えきれていない。幼い頃の思い出の多くに祖父がいるというのに。これが最後だと分かっていた日に、それでも、また来るからねと言って病室を後にするしかなかった悲しさを、いつまでも消化できていない。ありがとう、さようならと言いたくて、言えなくて、それはこの先何度も起こることで、それでも受け入れられていない。
畑で採ったばかりのトマトが温かったこと。
マックのフライドポテトが食べたいと言ったらポテトの細切りを炒めてくれて、「絶対違う」と思いながら食べて、おいしかったこと。
ほうとう作ってくれたこと。
今にも崩壊しそうな大きくてふわっとしたおにぎり、とか。
おじいちゃん
冬よりも寒い季節、晴天の中、煙になってしまったおじいちゃん
*1 正確には母親の実家