森見作品を読む 弐
誰にでも、忘れられない夏がある。
(映画「ペンギン・ハイウェイ」公式サイトより)
先日『太陽の塔』『きつねのはなし』を買ったのをきっかけに、未読だった「ペンギン・ハイウェイ」の映画と原作に触れることとなった。
まず物は試しにと映画を見て、あまりにすばらしかったので原作をお迎えしてしまった。でも、今から思えば先に原作を読んでいたかったかも。自分の頭の中で映像を作ってから映画を見ればその差異も楽しめるので。
感想は、すごくよかった。綺麗なファンタジーだった。これ以外に言うことはない。
けど、それだけだと1年後の自分に罵倒されるので自分なりにあらすじをまとめ、もう少し詳細な感想を書いておく。なにも頭のよさそうなことは書けなかった。
研究熱心な小学四年生であるアオヤマ君はある日、自宅近くの空き地にアデリーペンギンを発見した。突如現れたペンギンに街中が大騒ぎ。彼はペンギンを研究することにした。
ペンギンはなぜお姉さんから生まれるのか。「海」とは一体何なのか。
研究を進め、冒険するうちに彼はある一つの仮説に辿りつく。その仮説が証明された時、彼は深い悲しみを知ることになる。
(あらすじここまで)
お姉さんは世界の割れ目である「海」を修復する役目を持っており、そのためにペンギンを生み出す。しかしお姉さんは「海」が収縮すると元気がなくなる。また、お姉さんはペンギンを捕食するジャバウォックをも生み出す。
お姉さんはなぜジャバウォックを生み出すんでしょうね。何かを暗示しているのかなあと思ったけど、なんか考えるのは野暮な気がするのでやめました。ただ、お姉さんは海の向こうからやってきた、海と同じ種類のものなのかなと思ったよ。神様そのものだったのかなあ。
お姉さんはペンギンを生み出すし、ジャバウォックを生み出すし、植物を作ることもできる。まるで神様みたい。
アオヤマ君が色々な仮説を検証し、日々世界を広げていくさまがとても美しかった。映画ではただの脇役みたいになってたウチダ君も原作ではもう少し目立っていて、「人は(主観的には)死なない」という仮説はなるほどと思わされる。
全体的にとてもきれいな作品でした。
森見登美彦さんの作品にこんな世界があったなんてと驚かされる。これは『きつねのはなし』を読んだ時にはまったく感じなかったことだなあ。
初秋の読書週間はいったんここで一区切り!秋学期が始まるまでの間、秋インターンのESとか書きます。
森見作品を読む 壱
ツイッターに書いたもののまとめ。
これ言うの1000000000000000回目くらいだけど森見作品は原作もアニメもどちらも素晴らしいけどアニメにする時にいい感じに編集されててそれがまた良くて四畳半神話大系はアニメの方が感動する、原作読んだ後アニメ見たら大泣きしてしまった
手芸部頑張るぞ!→頑張れない、文芸部で頑張るぞ!→頑張りきれない、慶茶会で頑張るぞ!→逃げまくる、という私にとっては救いの物語なんですよ、わかりますか
何かに全力で打ち込むのはとても美しいことで私は全力で頑張る人が1番美しいと思ってる μ'sのみんなが大好きなのはみんなが本気で頑張っていて応援したくなったからで 何も頑張らなかった私はμ'sを応援しながら手に入らなかった青春を追体験していたわけです
でもμ'sになれない人も生きてていいんじゃないのかなと最近思うようになった 何にも打ち込めず惰性と器用さとなけなしの責任感で色んなものを"こなして"来たわけですが、それでも何かの役に立ったことはあったかもしれないし、心の底から打ち込めないことを思い悩む必要はないのかなと思うんですよね
惰性となけなしの責任感が私を構成する要素の99%を占めており、残り1%は廃油かなんかだと思う
夏が苦手なのに夏が終わると寂しくなるの、いかにも私の人生って感じなんだよな 生命力の暴力みたいな季節が似合う人間になりたかった どこでどう間違えたら女版・森見登美彦の腐れ大学生みたいになるんだ
きつねのはなしがめちゃめちゃ良くて今すぐ本屋に走ってって宵山万華鏡お迎えしたいってなってる。
きつねのはなしもノイタミナがアニメ化してくれないかな…森見作品のアニメって良さがあるんだよな…
有頂天家族のアニメはP.A.WORKSだけど有頂天家族も良かった。特に1作目で大文字納涼合戦にあたって弁天に奥座敷を借りるために西崎源右衛門商店を訪れた時の屋敷の奥の海のシーンが良かった
一番好きなのは弁天が自分が人間だった頃について語っているシーン。
浜も一面が雪にうずもれて、足跡一つない。誰もいない。大きな湖だけがいかにも冷たい冷たい感じで見渡す限り広がってる。自分は本当にひとりぼっちだなあ、淋しいなあと思うのだけれど、誰もいないところを歩いてゆかずにはいられないのね。でもどこへ行くというあてもない。だんだん頭が空っぽになる。淋しいときには決まって、その景色と、その中を歩いている自分を思い出すんだわ。毎年淋しい淋しいと思いながら見ていたものだから、淋しいことと雪景色が一緒くたになっちゃった。
弁天の底にある孤独が一番強く出ていて良い。おそらく弁天は永遠に満たされることができず、誰とも分かち合えない淋しさを狸や天狗との争いに興じて紛らわしていくんだろうなと思ったし、二代目の帰朝の最後のシーンもそれを暗示している気がする
枯れた田んぼも、青々とした竹林も、あらゆるものが雪に埋もれている。…天と地の間にはただひとり我ばかり、淋しさだけがそこにある。やがてひとりの天狗が飛来して地上に手を差し伸べる時、彼女は冷たい冬の空へ向かって、ためらいもなく手を伸ばす――。
このシーンを読むと弁天の根底をなすのはこのやはり淋しさだと思う。誰とも分かち合えない。「だって私は人間だもの」狸であったらだめなのだ、と。本当にこのシーンしんどいな、1作目から分かってはいたけど弁天ってずっと孤独なんだな。
狸であったらだめなのだ、では何だったらいいのか?というのが分からない。天狗だったらいいというわけでもなさそうだし、でも「弁天に必要なのは私ではない」という一節は「他の誰かが必要」という意味にも取れる
「毎年淋しい淋しいと思いながら見ていたものだから淋しいことと雪景色が一緒くたになっちゃった。」すごくわかってしまう。このシーンは特に何度も読み返したけど今でもこの一節は心臓を絞られるような気持ちになる。その景色があるから淋しいのか、淋しいことがその景色を見せるのか、混ざってしまう。
同じようなことを『月と世界とエトワール』の白凪海百合様も言ってたな。いつも淋しい、満たされない、なので少女の歌声を奪ってしまうがいくら奪っても満たされない、とか(うろ覚えが過ぎる)。本誌で最終巻まで追ってたけどちゃんとコミックスも買わなきゃダメだ
一瞬でそれまでの話とガラッと雰囲気が変わってしっとりする回ってものが好きすぎるな。有頂天家族アニメ第8話「父の発つ日」とか輪るピングドラム第9話「氷の世界」とか。「氷の世界」はそれまでのドタバタ劇から一転、この物語が単なるコミカルファンタジーでないことを観客に肌で感じさせている。
アニメ化されている森見作品の端々には主人公達の理解と力の及ばない不思議な闇の世界があるが、その闇の世界の話が『きつねのはなし』だと思った。きっと西崎源右衛門商店の奥座敷や、朱硝子の長い廊下、天満屋の至る世界、李白の電車の隅々に蠢く闇が京都のあちらこちらを人知れず覆っているのだと思う
ここ数日じっくり本を読んだり、好きだったものについて考えたりして思ったのは、私はもう中学生・高校生の頃と同じ熱量で何かに感動したり、何かを好きになったりすることはできないんだろうなってこと。
中高生の頃って感情の総量が大きくて本当に色んなものが大好きだったし嫌いなものもたくさんあったし好きなものに対してすごく一生懸命だった
今は嫌いなものがほぼないかわりに新しく何かを好きになることもあんまりない
なので中学生の頃に経験した感動を超えることは多分もうできないんだと思う
『九つの、物語』を超えるほど好きな作品にはきっと出会えないし、あの頃自分のことのように感じた弁天様の孤独を、今は少し懐かしさの混じった目で見ている自分もまたいる
私は今でもそれなりに感傷的な人間だけど昔の方がもっと感情豊かだったしこれからもゆっくりと持ってるものを減らしながらフラットな人間になっていくんだと思う あのエネルギーは一体どこへ行ったんだろう
『太陽の塔』読み終わったけど、これ良いな…水尾さんとの失恋をゆっくり、回り道しながら、終わらせていく話なんだな。最後の方の数十ページに全部持ってかれてしまった
『四畳半神話大系』とか『有頂天家族』みたいに最初から最後までの出来事全部が絡み合って結末に収束していく感じではないんだけど、主人公の日常を積み重ねながら過去と現在を行き来していく中で水尾さんへの思いの消化しきれなさがまざまざと感じられてまたよかった、別の良さがある
考えなしにノートPCを買うな
残暑の合間に寒さが訪れるこの頃、周りで人がばたばたと倒れている。私も台風にやられている(暑さ関係なし)。お元気ですか。
生まれてこのかた、特に理由もなくMacを使って得意顔をする人々を軽蔑してきた。
というと大げさだが、Macは一部の技術屋にとって良いPCであり他の有象無象は実際のとこをWindowsと同程度の恩恵しか受けていないと考えていた。
こういうことを考えている私は当然Winユーザーで、大学入学時にSurfaceを買った。英米文学専攻に進む予定だったのでOfficeのソフトとインターネットが使えればそれでよかった。しかし二年経って大きな問題が発生する。
私は英米文学とは似ても似つかぬ学問を専攻することになり、文学部のくせにJavaを書き、開発環境としてeclipseを使い、Photoshopで画像編集し、AccessとVBAでデータベースを作り、Excelでマクロを動かす生活を強いられている。お分かりいただけただろうか、これらの用途にはSurfaceの廉価モデルはあまりにお粗末すぎた。私はタブレットとして使うでもないSurfaceを鉄の板のように持て余しながらひいこらと課題を片付けている。
この、MacをバカにするわりにWinも使いこなせない私がさらに衝撃を受けたのが先日の火曜だった。ひょんなことからMacを支給されて使うことになった。するとどうか。
速い!!!なめらか!!!!こちらの意図を察知するかのように動く!!!!!
さすがはApple製品といったところか、いやApple製品の中でも格別だと思う。Apple製品は道具の存在感を感じさせないというのが私の考えだが、その最たるものはMacだった。
しかも安い。優秀さと価格とを比べると、実質タダといって差し支えない。考えてもみてほしい。鉄の板を6万で買うのと、体の一部を10万で買うのと、一体どちらが高い買い物だろうか?
あの時10万でMacを買えばよかったとまでは、まあ、言わない。しかしなぜSurfaceにしたのだという思いは抑えられない。これは鉄の板だ。それなりに優秀で、打鍵音も悪くないが、しかし、板である。
Winは「優秀な道具」だが、Appleは「身体の一部」なのだ。これがいくら高くても世界中にAppleファンが存在し続ける所以だと改めて感じた。しかし、そんなApple信者の私は、先日の機種変の際はSEを買った。なんということだ、しかし金がないものは仕方がない。がんばって稼げる仕事に就くぞ。
おじいちゃんの話
「ご先祖様が帰って来る時は、早く来てほしいから馬に乗ってもらう。帰る時は名残惜しいので牛に乗ってゆっくり帰るんだよ」
それを教えてくれたおじいちゃんが馬に乗って帰って来る人になって2回目のお盆を迎えた。馬と牛を作るのはおじいちゃんの仕事だったが、いつからか従姉がやるようになり、私がやるようになり、今年は弟が作った。おじいちゃん抜きで行う年中行事を重ね、私達は、少しずつおじいちゃんのいない日々を受け入れていく。
いい歳して他所様の見るところで「おじいちゃん」なんて幼稚だろうか。祖父と書くといかにも一族の長という感じがして困る。おじいちゃんはそんなのじゃないのだ。おじいちゃんは確かに定年まで教師として勤め上げ、親族を束ね、結婚式のスピーチや仲人を任されるような人だったけども、私にとってはそういうことは些末な問題なのだ。具体的にどんな人かを書くと長くなるので割愛する。
イメージを損なわないためここではおじいちゃんと書いてしまう。
お盆なのでおじいちゃんが亡くなってからの話を備忘録がてら書いておく。オカルト、スピリチュアル要素が入るが勘弁してほしい。
・おじいちゃんが亡くなった報せを受け、叔父、叔母、従姉、弟と共に叔父の車で青森に向かった日
20時頃に連絡を受け、すぐ叔父の家のある浦和に移動し、浦和ICから東北道を飛ばして青森へ。皆眠れず、おじいちゃんのことなど話しながら向かう。6月だったがSAで休憩するごとに薄い氷のベールがかかるように寒くなっていく。疲れからか明け方に少し眠る。おじいちゃんの夢を見た。
夢の中でおじいちゃんが安置されている家の和室にいた。おじいちゃんの頰に触れると「痛いよ」と言われた。怖いとも思わず、「ごめん」と謝るとおじいちゃんはいつものように目を細めて笑って「嘘だよ」と言って、それきり喋らなかった。
目が覚めるとちょうど青森中央ICを降りるところだった。
・おじいちゃんが亡くなって少ししてから
また夢を見る。おじいちゃんの家にいると、死んだおじいちゃんが帰ってきている。おじいちゃんは亡くなったことに気付いていないようなので、どうにか気付かせないようにしようと思う。ウイスキーはどこだと聞かれる。
・2017年冬、おばあちゃんの体験
寝ていると壁を叩く音がする。「お父さん、入れないんだよ」と声をかけると音がやむ
・おばあちゃんの夢
石がたくさん積み上がっている河原をおじいちゃんが車を運転している。おばあちゃんは「お父さんそこ行けないから待ってて」と声をかけるが、おじいちゃんはそのまま車を走らせて川を渡って行ってしまう
・2018/8/11夜
母と一関に泊まり、近所の居酒屋で夕食にする。穴子が信じられないくらいうまい。フワフワでおいしい。おじいちゃんは穴子が好きだった。おじいちゃんを連れてきたかったねと話しながら食べた。店を出ると、花火もやっていないし仏具屋があるわけでもないのに線香の匂いがした。母と顔を見合わせたが、怖いとは思わなかった。
・2018/8/13夜の私
布団で母とおじいちゃんの話をしてしばらくすると壁をコンコンと叩く音がした。おじいちゃんではないかと思ったし、或いは(仮に霊が実在するなら)お盆に乗じて来ているそこらへんの霊ではないかとも思った。そこらへんの霊に「おじいちゃん待ってたよ、早くこっち帰って来て」なんて言いたくないし、仮におじいちゃんだったとしてもそんなことを言っていいのかも分からなかった。おじいちゃんはもうこちらの人ではないのだからやはり帰ってきたとしても私たちと同じ場所にはいないのだ。迷っているうちにどうでも良くなりおじいちゃんとの思い出を振り返っていた。振り返っているうちに寝た。
・生前のおじいちゃん
おじいちゃんの末妹が来た。話を聞いていると生前は週に一回くらいおじいちゃんの様子を見に行っていたらしい。施設の職員の中にも当たり外れがあり、目の前でこの人は認知が入っていると言ったり差し入れのお菓子や野菜を残らず取り上げてしまったりする人もいた。末妹が「兄さんよく怒らないでいられるね」と言うと「あんなどこの高校で出たか分からないやつと言い争ってもしょうがない」と穏やかに返したという。おじいちゃんは今も昔も県下トップである高校の出身だ。卒業生は期が違っても強い繋がりを感じており、現に同じく卒業生であるおじいちゃんの病院の院長はおじいちゃんにだけ巡回で挨拶に行き苗字でなく「先輩」と呼んだという。選民意識とまではいかないまでも誇りとプライドを垣間見て少し可笑しかったし、その誇りとプライドに裏打ちされた寛容さ、余裕は見習いたいものだと思った。
この後に及んで「おじいちゃんの死がまだ受け入れられない」なんて言うつもりはないけれど遺影を見ると不思議に思うことがある。この記事は仏間でおじいちゃんの遺影を見ながら書いているが、リビングに戻ってもおじいちゃんがいないというのは不思議なことだ。明後日になればおじいちゃんはまた帰ってしまう。しかし帰ってもらわなければいけないのだなとも思う。難しい。おじいちゃんのことを知るにつけ、惜しい人を亡くしたというのはこういう時のためにある言葉なのだと実感する。
夏の短歌祭
夢のなかの猫
昨晩「明日は1限テストだから絶対に起きなきゃ」と思いながら寝たせいだろうか、今朝は変な時間に目が覚めた。3時。
夢を見ていた。
自宅(実際の自宅)にいた。オートロックのマンションの6階にもかかわらず、家の廊下に見知らぬ猫がいた。白と黒のハチワレで黄色い目をした愛らしい猫だった。少し大きい。温かくてふわふわしていて、妙に人懐こい。私の脚に体を擦り付けて甘えてくる。
あまりに人懐こいので抱いて写真を撮った。しかし、撮った写真を見てみると、猫の顔が全然違う。写真に写っているのは確かに黄色の目をした白黒のハチワレだが、表情がまるで違う。眉間に変な影があるし、目つきはずっと鋭い。牙も出ていただろうか、とにかく恐ろしかった。
写真に写った猫が恐ろしかったのもそうだし、自分の目で見ると相変わらず猫が愛らしいのも恐ろしかった。私が猫に感じている恐怖を猫も分かっているだろうに素知らぬ顔で甘えてくるのも恐ろしかった。
急いで猫を振り払ってリビングに入り、ドアを閉める。母がいたので「ママ、猫がいる、怖い。写真で見るとほら、全然顔が違う」のようなことを訴えた。母は私の恐怖を理解し、母の昔の友人に会わせてくれるというのでついて行く。女子短大から女子大に編入したはずなのに大学時代の友人を名乗ってやってくるのは半分くらい男だ。どんどん増えていって名前が覚えられない。そうこうしているうちにはぐれてしまい、見知らぬ暗い街で一人きりになる。ずいぶん薄汚く寂れた暗い街だったが、あれは日比谷界隈に似ていた気がする。
目が覚めると真っ暗だった。時計を見ると3時だったので当たり前だ。足元にさっきの猫がいるような気がした。開けっ放しの窓から外を歩く人の声や音が聞こえる。猫は部屋のどこかを歩いていた。
※幸運なことに、そのあと二度寝してちゃんと6時に起きられた
真夏の夜、図書館で君と歩く地下。
フッと息の音がして、部屋がまた暗くなる。
「前川くんの怖い話、なかなか面白かったですよ。じゃあ、次は私ですね」
蝋燭の光にぼんやりと照らされる教授の顔は、明るい教室の中で見るものとは少し雰囲気が違ってどきりとした。美人だからだろうか、なんだか不気味な感じがする。元々暗いのは苦手なのだ。私は誰にも気付かれないように身震いした。
「これは私がここの院生だった頃の話です。」
そもそもどうして部屋の中に蝋燭が並んでいるのか。これは図書館情報学専攻のゼミ合宿ではなかったのか。
事の発端は今となっては曖昧だが、ゼミ生と教授を交えて百物語をすることになってしまった。と言っても百回繰り返すのは難しいので、ゼミ生7人と先生が話し終わったらおしまい。八物語だ。丸くなってから図書館情報学専攻お得意のExcelくじ引きで最初の人を決めて、時計回り。先生の次が私で、私が最後だった。
怖い話はあまり気が進まない。できれば先生が話し疲れて終わりにしてくれればいいのにと思った。
「図書館旧館、新館とあるのでお分かりかと思いますが、私のいた頃は今の新館はありませんでした。そんなに昔の話ではないんですよ。そこ、笑わないで。
こんな夏の暑い日で、私は博論が大詰めを迎えていたので大学に泊まり込んでいました。研究室の椅子で仮眠しては論文を書いて、資料を整理しているうちに、私は昼間読んでスルーした論文がやはり欲しいと思いました。それで先程言った図書館――今で言うところの旧館――へ行ったのです。
今と違って警備員さんにひと声かければどこへだって行けたんですよ。しかも、まあ私はそれなりに優秀な院生だったので。それで旧館へ入ってみると真っ暗で、初めて入る時間外の旧館にはそれなりに戦きました。でもまあ驚いていてもしょうがないので論文のある地下へ降りていったんです。
消灯後で非常口の灯りしかなく、手に持った懐中電灯で照らされる1m先より遠くは見えませんでした。でも図書館は構造化されてるので、どこに何があるのかくらいは何となく分かるじゃないですか。それでどんどん奥へ行って、目当ての論文をゲットしました。」
哲也が隣で「こんなの先生の個人的体験だよね」と呟いたので笑ってしまった。笑うと息で蝋燭がユラユラ揺れて部屋中に光が広がった。先生の顔はよく見えない。まるで闇に包まれた旧館地下のように。
「帰る時は来た時と逆の道を行けばいいわけです。見知った図書館ですからどんどん歩いて行きました。皆さんは旧館は分からないでしょうけど私にとっては旧館こそが皆さんの言うところの「メディア」だったわけですから。
でもいくら歩いても階段が見当たりませんでした。倫理学のエリアのすぐ近くに階段があったはずなのに、その倫理学のエリアが見つからない。完全に迷ったと思いました。歩いて、歩いて、曲がってみたり走ってみたりして、それでも見つからない。自分がどこにいるのかも分からない。気付いたら非常灯も見えないような場所にいて、懐中電灯で照らされる先はただの書架でした。その先も書架。それでも懐中電灯が命綱だったわけですが、ずっと使っていたせいかその頼みの綱の光すらだんだん弱まっているような気がしました。いえ、今から思えば闇が濃くなっていたんですね。
私にしてはあり得ないことですが、恐怖で立ちすくみました。完全に呑まれていました。
その時です。夫に声をかけられたのは。
夫――当時は彼氏でもなんでもありませんでしたが――は院の先輩で研究所でもよく顔を合わせました。顔見知りといったところです。その時私はなぜ夫がそこにいたのかということよりも、知り合いを見つけて安心したことの方が大きかった。
「麻理さん、こんな所でどうしたんですか」
迷ったと素直に答えると、ここは一階段の裏側だと彼は言って、手を引いて案内してくれました。陽の当たらない地下にずっと居たせいか私の手は冷え切っていたけど、彼の手はもっと冷たかった。それでも安堵と敬愛で彼の手の触れる場所がじんじん熱かった。
階段を昇って図書館の入口が見えた時、私はあろうことか少し残念に思いました。たった二人きりで誰もいない図書館を歩くのがなんだか特別なことのように思えて、でも外に出たらそれが終わってしまう気がした。それでもずっと図書館にいるわけにもいきませんから。
まさに入口の扉を開けて外に出ようという時、夫が私の手を離しました。
「あれ、僕忘れ物したこと思い出しました。取ってからまた行くので、またあとで」
「すみません、私の案内してもらったばかりに。研究室で待ってます」
私は素直にそう答えてまた闇の中に消えていく夫を見送りました。そういえば夫は懐中電灯を持っていなかったのに、どうやって歩くんだろうとその時思いました。
扉を開けて外に出ると凄まじく湿った熱い空気と主張の強いコオロギの合唱が襲ってきました。そこで初めて私は図書館の中がとても寒くて静かだったことに気付きました。それはもう不自然なくらいに。
そこで、もう一つとても不自然なことに気付いたのです。夫は昨日、仙台で行われる学会へ行ったばかりでした。今ここにいるはずがないのです。
それまで怖いとも思わなかった図書館が急に怖くなって、私は後ろも振り返らずに走って研究室へ帰りました。その夜は一睡も出来ませんでしたが、もちろん夫が来ることはあませんでした。
あれは誰だったのか、あるいは何だったのか、今でも考えることがあります。あれ以来消灯後の図書館には行かなくなりました。これで私の話はお終いです。」
フッと息の音がして蝋燭が消え、部屋の中を照らす光源は私の目の前のか細い蝋燭ただ一つになった。私だけが光に照らされて周りの人の顔は闇に溶けている。百物語で怖いのは怖い話よりもこの瞬間かもしれない。何より、最後の人が話し終わった時には――
不意にドアがガチャリと開いて廊下の光が一気に流れ込んだ。蝋燭は風に煽られ、役目は果たしたと言わんばかりに消える。
「まだ起きてたんですか。いい加減に寝てください。明日の論文指導を子守唄にするつもりはありません」
若干呆れ気味の安形先生を前に私達は動くことも出来ずにいた。安形先生は外から入ってきた。しかし、それなら、さっきの話をしていたのは一体誰だったのか。
「せ、んせい」
喉から出た声が掠れている。顔に集まる視線から周りの皆が私と同じことを考えていると分かった。
「あの、今まで私達と一緒にいましたよね?」
「いいえ」
安形先生は不思議そうな顔をした。小首を傾げる。いつもならそれを可愛いと言って騒いでいたが、今はじわじわと迫る恐怖でそれどころではない。
「私はさっきまで倉持先生と飲んでました。あと池山先生も。ここには来てませんよ。おかしなことを言ってないで早く寝てください」
百物語の一番怖いことは、周りがよく見えないことなのかもしれなかった。