布団大好き!

日記や所感など

ねじれの位置

 

という言葉を私が初めて知ったのは、中学校で幾何を習うよりもずっと前、小学校3年生の時。

重松清さんの『きみの友だち』の章タイトルの一つにこの言葉があった。それです。あの頃中学入試の国語で『きみの友だち』を使うのが大流行していて、とにかくどこの学校の過去問を解いてもきみの友だちの一節が引用されていたし、入試問題を意識して作られている模試でも「きみの友だち」を見たことがある。

あまりによく目にするので軽率に図書室で借りて読んだら話が重たすぎて泣いてしまった。まだ胸を張って読書家を自称できた頃の、重松清作品との出会いです。(余談だけど、重松清作品の中で『きみの友だち』ってかなり読みやすい方ですよね。中学入試だけあってちゃんとライトなものを選んでいたんだな。)

ジャングルジムでふたり、ねじれの位置になって腰掛ける。ねじれの位置というのは中学で習う範囲では、三次元空間での直線同士の位置関係を表していて、どこまで伸ばしても決して交わらないことを言うんですよね。どこまでいっても交わらない。口の中で転がしてみると、なんとなく「はじまらない・つながらない・おわらない」と似た響きがある気がしませんか。しないかな。

 

江國香織さんの『号泣する準備はできていた』を読みました。『すいかの匂い』がすごく好きだったので作家買いです。

江國香織さんの文章って良いですよね。とても繊細でこまやかで、人間の感情をものすごい高解像度で描写している。決してくどくはないんだけど、言葉にしきれないような体温だとか心の揺れまでが苦しくなるくらい伝わってくる。だから『すいかの匂い』とかめちゃめちゃ怖かったですね。あれは買ってよかったと思えるお気に入りだけど、向こう3年は読みたくない。怖い思いをしたい人にはおすすめします。

『号泣する準備はできていた』は短編集。語り手の年齢も性別もばらばらで、恋人がいたりいなかったり、結婚していたりいなかったりする。世界観の繋がりもない。そんなばらばらの物語が集まったものを読んで、ぼんやりと受けた印象が今回のタイトル「ねじれの位置」。どの話の主人公も、一番近くにいる人とまったく交わっていないんですよね。それこそ、はじまらない・つながらない・おわらない、みたいな。触れているのに触れてない。体を重ねても同じ食べ物を食べても分かり合わない、分かり合えない。

その空虚さが江國さんの繊細かつ濃密な文章で体の中に流し込まれて、読み終わった直後の今は正直かなりいっぱいいっぱいです。江國さんの文章ってとても甘やかじゃないですか。甘やかって言ってもふんわりと甘い香りが漂うようなものじゃなくて、粘度の高い蜂蜜を指先でもてあそぶような。蜂蜜を直接胃の中に流し込まれたような感じ。どうやったらあんな軽やかな文体で重い文章を書けるのかなあ。すごい。

 

一つ選んで感想を書くとするなら「熱帯夜」。女性同士の恋人の話なんですけど、百合ってまさにこれ!ってことが書いてあって3回くらい肯いた。

行き止まり。実際、私たちは行き止まりにいるのだ。どんなに愛し合っていても、これ以上前に進むことはできない。たとえば結婚も離婚もなく、たとえば妊娠も堕胎もない。望みはみんな叶ってしまったし、でも私はもっともっと秋美がほしい。(p.52,l.2)

これ以上進む場所なんてないのにもっと先に行きたい。この語り手は結婚がしたいわけでもないし結婚したいとも言わないんだけど、それでも、自分の中で再現なく増幅する愛をどこかに持っていきたい。でも行き場がない。行き場のない思いがじっとりと鬱陶しく立ち込めるさまが、まさに「熱帯夜」というタイトルにふさわしい。

 

なんか正直言ってこの本は感想を書くのが難しいです。何か言葉にせずにはいられないんだけど、いざ文字に起こすとどの言葉も私が感じたものを表現できずに上滑りしてしまう。というか感じるのもけっこう難しいです。全体を通して流れる「ままならなさ」みたいなものはすごく分かるんですけど、すべてを理解するには私はまだ幼すぎるんだと思います。

中学生の時に角田光代さんの『対岸の彼女』を読んだ時も同じように感じたなあ。

こういう本は本棚に眠らせておいて、大人になってからもう一度読みたいです。そうやって時間差で理解できた時ってえもいわれぬ感動があるというか、物語は作者が書いて読者が読んで解釈してはじめて物語になるんだなと思う。読者たる私が今まで生きてみて読んで感じて作り上げたフィルターを通して物語を理解するところまでが物語なんです、みたいな。このあたりは主張が分かれる話だと思うんですけどね。でももっと平たく言うと、同じ本でも小学生の時に読んだ印象と大人になってから受けた印象が変わると感動するじゃないですか。そういう話です。

 

今の話で思い出したけどスピッツの「空も飛べるはず」とかも小学生の時と中学生の時と今で解釈が全然違うなあ。小学生の時はどういうわけか完全にバッドエンドだと思ってて、中学生の時はメリバだと思ってて、今はいやこれ普通にハピエンじゃんと思ってる。

いい加減に聞いてたわけじゃないと思うんですけどどうしてこんなに印象が変わるんでしょうね。

人間の情報認識って不思議だなあ。やっぱり解釈する主体の影響を免れないんですよね。うわ、オートポイエーシスじゃん。

 

オチはない。