布団大好き!

日記や所感など

初夏の羽田空港にて橋本紡『九つの、物語』を読む

 

いや、読んでないけど。

 

暑さで頭がおかしくなったので毎週火曜の午後の過ごし方が狂っています。

まず六月の第1週は悪名高い大学前無料カフェに行きました。先々週は東京タワーまで歩いて往復しました。先週は天王洲アイルまで歩き、コーヒーを飲んで、モノレールで大学に戻りました。そして今週は自転車で羽田空港に行きました。さすがに疲れた、狂ってる。

東京タワーくらいで満足しておけばこんなことにはならなかったんだよな。

このまま来週もハードルを上げていくとそのうち空きコマで飛行機に乗りかねないので来週は無難に肉とか喰いたい。

 

ここ数週間で自分の大切なものについてよく考えています。バレエ、アルバイト、就職先。何に時間を使い、誰と何をして、どんな文字を読むのか。それで思い至ったわけではないのですが、今日は私の一番好きな小説である、橋本紡さんの『九つの、物語』について書こうと思います。

 

題名の通りこの小説は9本の短編から成っています。それぞれの短編のタイトルは近現代文学の題名になっていて、主人公の藤原ゆきながそのお話を読みながら日々色々な出来事に出会い、感じ、考え、心を揺らせながら生きていくさまを描いたものです。文学作品の内容が、本編のストーリーに影を落としていたりもする。

私がこの小説で好きなところは食べ物の描写が丁寧なところですね。物語開始以前に亡くなっていて幽霊として存在するゆきなの兄、禎史はたびたびゆきなのために美味しそうな食事を作るのですが、その描写のなんとおいしそうで、そして兄から妹への愛を感じさせること。そして妹はさまざまな感情を抱えながらも、兄の作る食事や、彼氏とのデートでの食事を味わいます。食べることが生きることの常にすぐ側にあることをはっきりと感じさせるわけです。「食べる」ということに対して非常に真摯に向き合っている。

ゆきなは話が後半に差しかかるある時、生きる気力みたいなものを失っていきます。何も食べられずにやせ細っていく。そこで見かねた兄がゆきなに自らの手から食事をとらせると、ゆきなはそれを食べることができる。幽霊である兄の手によって生かされるわけです。皮肉ですね。おかしいでしょう。自らの手で食事をとることは、自らが生きることを、そしていかに生きるかを選択することであって、それを自分でできないというのはもう死んでいるも同然です。ゆきなは自らの生を肯定できない数週間を過ごします。

食べることは生きること。

物語の最後で、ゆきなは兄との二度目の別れを経験します。幽霊の兄が去るのです。「おまえのことが誰よりも愛おしかった。おまえが成長していくさまをずっと見守っていたかった。でもそれはもうできないから、幸せになってくれ」「お兄ちゃん」手を伸ばした先に兄の姿かたちはもうなく、代わりに疎遠になってしまっていた恋人が現れます。「お兄さんに呼ばれて」。ゆきなは恋人の手によって助けられ、日常に戻ります。兄の手を離れ、兄の力の及ばない世界で、兄ではない人と共に生きていく一歩を踏み出すのです。

生きる気力を取り戻したゆきなのエピローグが印象的です。

「わたしはもう、自分の手で食べ物を食べられる。味わって、飲み込んで、生きていく」

兄の手を借りず自分で食事をします。自分の足で生きていく。

完全にネタバレになってしまいますが、幽霊の兄の存在自体がゆきなの生にたいする罪悪感の表れで、兄の手から食事をとることだけでなく幽霊の兄を認識すること自体がゆきなの自身の生の否定だったんですよね。ゆきなは自らの取り返せない過ちを受けいれ、悲しみを受けいれ、自らの生を肯定する。自ずと兄はゆきなの元を去る。なんかもう構造が完璧に美しすぎて、わざわざ外側から語ることがおこがましいんですが、本当にこの流れがいい。

 

それからもう一つこの話で救いだなと思うのが、兄は消滅したんじゃなくて世界の端々に溶けていったみたいな描写をされるんです。ふと歩いていると兄のような人影が見えるが、よく見ると別の人である、みたいな。だから、なんて言うか、ゆきなの世界は兄に包まれているんです。兄の愛に包まれてるんですよね。わかるかなあ。

 

輪るピングドラムの最後と似たものを感じるんですよね。

輪るピングドラム」の最後で、高倉陽毬は兄達に関する記憶を完全に失います。記憶を失った陽毬の元に、陽毬には見えなくなったサンちゃんがぬいぐるみを届ける。陽毬はそのぬいぐるみが何なのかも分からないまま、腹から覗くメモに「大好きだよ!!お兄ちゃんより」と書いてあるのを見て、涙を流します。サンちゃんは庭の植物が芽を出しているのを見届けて、高倉家改め池辺家を去ります。そこで陽毬の声でモノローグが入る。

「わたしは、運命って言葉が好き。信じてるよ、いつだって一人なんかじゃない」

作中で晶馬、冠葉、苹果が運命について自らの考えを語る中、陽毬はこの時まで運命について語っていません。全ての愛のやり取りが終わり、まっさらだけれども穏やかな世界の中で、はじめて語られる陽毬の言葉。

「いつだって一人なんかじゃない」

これは記憶をなくす前の陽毬から、記憶をなくした陽毬へ、そして観客へのメッセージなんですよ。

記憶をなくした池辺陽毬は、高倉陽毬であったことを思い出せない。認識できない。それでも、池辺陽毬が池辺陽毬であるのは、高倉冠葉と晶馬の愛があったから、かつて彼女が高倉陽毬であったから。彼女の世界の至るところは兄の愛で形作られているのです。たとえば、庭にひっそりと芽を出した植物のように。

 

『九つの、物語』に話を戻すと、そうやって、愛してくれた人が目に見えなくなっても、私たちの世界には私たちを愛してくれた人がずっといるんだよね、みたいな感じがするのが、泣けるんですよね。

わかるかなあ。

 

そんな感じの、『九つの、物語』に関する所見でした。手元に本がない上に最後に読んだの1年前だから台詞がうろ覚えなのは許してね。

ちなみにこれ最寄駅のエキュートのベンチで書いてるんだけどなんでそんなことしてるかっていうと一旦休憩しないと帰れないくらい疲れたからなんですよね。年齢相応の思考力を持ったみんなは田町から羽田空港までサイクリングしようとするのはやめましょう。死にます。楽しかったけどね。あー狂ってたなあ。

 

それじゃあ、家に帰ります。