私が人生のバイブルとしている物語に「輪るピングドラム」がある。

特に好きな台詞のひとつとして、今日はこれを取りあげたい。

 

ねえ、生きるってことは罰なんだね。私、高倉家にいる間、ずっと小さな罰ばかり受けてたよ。(第24話Bパート)

 

この台詞の後に続くのは高倉家での他愛ないやり取りだ。冠ちゃんはだらしない、晶ちゃんは口うるさい。一度聞くだけだと、何がどうして罰なのか、と思ってしまう場面だ。

私はこれを以下のように解釈する。陽毬は晶馬に選ばれ、高倉家に迎え入れられて初めて「生きる」ことができた。愛の果実を分け与えられ、生命を得た。陽毬は高倉家で生きていたのだということをこの後の台詞は表している。

その上で、この作品において、生きることは選ぶことであり、同時に、選ばれないものを生み出すことだ。そして選ばれないことへの恐怖を引き受けることだ。ひとを、愛を、運命を選ぶ。陽毬もまた選び、選ばれながら生きてきた。陽毬はそれを罰と形容したのではないか。選ばれなかった経験のある陽毬には、選び選ばれる市場に乗ることが、生きることが苦痛だったのではないだろうか。

 

では自分の意思で選ぶことをしなければ選ばれないことの痛みがないのかといえば、そういうことでもないのだ。誰とも果実を与え合おうとしない人間は、キスだけをやり取りして、心がすり減ってしまう。心が凍りついて消えてしまう。

痛みを賭して誰かを本気で愛さなければ、ほんとうのさいわいは、果実は、得られないのだ。

 

私はこの作品を折に触れて思い出す。愛することの痛みを知った今、陽毬の台詞をもう一度なぞって思うのは、私もまた痛みに溢れた愛の世界で生きたいということだ。心臓から血を流し、体中が裂けてボロボロになっても、それでも私は果実を与えたい。与えられたい。

 

 私、あなたとなら、未来永劫呪われたっていいわ。

あるいは、

僕の愛も、君の罰も、みんな分け合うんだ。

と、そう言える人でありたい。