森見作品を読む 壱

ツイッターに書いたもののまとめ。

 

これ言うの1000000000000000回目くらいだけど森見作品は原作もアニメもどちらも素晴らしいけどアニメにする時にいい感じに編集されててそれがまた良くて四畳半神話大系はアニメの方が感動する、原作読んだ後アニメ見たら大泣きしてしまった

手芸部頑張るぞ!→頑張れない、文芸部で頑張るぞ!→頑張りきれない、慶茶会で頑張るぞ!→逃げまくる、という私にとっては救いの物語なんですよ、わかりますか

何かに全力で打ち込むのはとても美しいことで私は全力で頑張る人が1番美しいと思ってる μ'sのみんなが大好きなのはみんなが本気で頑張っていて応援したくなったからで 何も頑張らなかった私はμ'sを応援しながら手に入らなかった青春を追体験していたわけです

でもμ'sになれない人も生きてていいんじゃないのかなと最近思うようになった 何にも打ち込めず惰性と器用さとなけなしの責任感で色んなものを"こなして"来たわけですが、それでも何かの役に立ったことはあったかもしれないし、心の底から打ち込めないことを思い悩む必要はないのかなと思うんですよね

惰性となけなしの責任感が私を構成する要素の99%を占めており、残り1%は廃油かなんかだと思う

 

夏が苦手なのに夏が終わると寂しくなるの、いかにも私の人生って感じなんだよな 生命力の暴力みたいな季節が似合う人間になりたかった どこでどう間違えたら女版・森見登美彦の腐れ大学生みたいになるんだ

 

きつねのはなしがめちゃめちゃ良くて今すぐ本屋に走ってって宵山万華鏡お迎えしたいってなってる。

きつねのはなしもノイタミナがアニメ化してくれないかな…森見作品のアニメって良さがあるんだよな…

有頂天家族のアニメはP.A.WORKSだけど有頂天家族も良かった。特に1作目で大文字納涼合戦にあたって弁天に奥座敷を借りるために西崎源右衛門商店を訪れた時の屋敷の奥の海のシーンが良かった

一番好きなのは弁天が自分が人間だった頃について語っているシーン。

浜も一面が雪にうずもれて、足跡一つない。誰もいない。大きな湖だけがいかにも冷たい冷たい感じで見渡す限り広がってる。自分は本当にひとりぼっちだなあ、淋しいなあと思うのだけれど、誰もいないところを歩いてゆかずにはいられないのね。でもどこへ行くというあてもない。だんだん頭が空っぽになる。淋しいときには決まって、その景色と、その中を歩いている自分を思い出すんだわ。毎年淋しい淋しいと思いながら見ていたものだから、淋しいことと雪景色が一緒くたになっちゃった。

弁天の底にある孤独が一番強く出ていて良い。おそらく弁天は永遠に満たされることができず、誰とも分かち合えない淋しさを狸や天狗との争いに興じて紛らわしていくんだろうなと思ったし、二代目の帰朝の最後のシーンもそれを暗示している気がする

枯れた田んぼも、青々とした竹林も、あらゆるものが雪に埋もれている。…天と地の間にはただひとり我ばかり、淋しさだけがそこにある。やがてひとりの天狗が飛来して地上に手を差し伸べる時、彼女は冷たい冬の空へ向かって、ためらいもなく手を伸ばす――。

このシーンを読むと弁天の根底をなすのはこのやはり淋しさだと思う。誰とも分かち合えない。「だって私は人間だもの」狸であったらだめなのだ、と。本当にこのシーンしんどいな、1作目から分かってはいたけど弁天ってずっと孤独なんだな。

狸であったらだめなのだ、では何だったらいいのか?というのが分からない。天狗だったらいいというわけでもなさそうだし、でも「弁天に必要なのは私ではない」という一節は「他の誰かが必要」という意味にも取れる

 

「毎年淋しい淋しいと思いながら見ていたものだから淋しいことと雪景色が一緒くたになっちゃった。」すごくわかってしまう。このシーンは特に何度も読み返したけど今でもこの一節は心臓を絞られるような気持ちになる。その景色があるから淋しいのか、淋しいことがその景色を見せるのか、混ざってしまう。

同じようなことを『月と世界とエトワール』の白凪海百合様も言ってたな。いつも淋しい、満たされない、なので少女の歌声を奪ってしまうがいくら奪っても満たされない、とか(うろ覚えが過ぎる)。本誌で最終巻まで追ってたけどちゃんとコミックスも買わなきゃダメだ

 

一瞬でそれまでの話とガラッと雰囲気が変わってしっとりする回ってものが好きすぎるな。有頂天家族アニメ第8話「父の発つ日」とか輪るピングドラム第9話「氷の世界」とか。「氷の世界」はそれまでのドタバタ劇から一転、この物語が単なるコミカルファンタジーでないことを観客に肌で感じさせている。

 

アニメ化されている森見作品の端々には主人公達の理解と力の及ばない不思議な闇の世界があるが、その闇の世界の話が『きつねのはなし』だと思った。きっと西崎源右衛門商店の奥座敷や、朱硝子の長い廊下、天満屋の至る世界、李白の電車の隅々に蠢く闇が京都のあちらこちらを人知れず覆っているのだと思う

 

ここ数日じっくり本を読んだり、好きだったものについて考えたりして思ったのは、私はもう中学生・高校生の頃と同じ熱量で何かに感動したり、何かを好きになったりすることはできないんだろうなってこと。

中高生の頃って感情の総量が大きくて本当に色んなものが大好きだったし嫌いなものもたくさんあったし好きなものに対してすごく一生懸命だった

今は嫌いなものがほぼないかわりに新しく何かを好きになることもあんまりない

なので中学生の頃に経験した感動を超えることは多分もうできないんだと思う

『九つの、物語』を超えるほど好きな作品にはきっと出会えないし、あの頃自分のことのように感じた弁天様の孤独を、今は少し懐かしさの混じった目で見ている自分もまたいる

私は今でもそれなりに感傷的な人間だけど昔の方がもっと感情豊かだったしこれからもゆっくりと持ってるものを減らしながらフラットな人間になっていくんだと思う あのエネルギーは一体どこへ行ったんだろう

 

太陽の塔』読み終わったけど、これ良いな…水尾さんとの失恋をゆっくり、回り道しながら、終わらせていく話なんだな。最後の方の数十ページに全部持ってかれてしまった

四畳半神話大系』とか『有頂天家族』みたいに最初から最後までの出来事全部が絡み合って結末に収束していく感じではないんだけど、主人公の日常を積み重ねながら過去と現在を行き来していく中で水尾さんへの思いの消化しきれなさがまざまざと感じられてまたよかった、別の良さがある