真夏の夜、図書館で君と歩く地下。



 フッと息の音がして、部屋がまた暗くなる。

「前川くんの怖い話、なかなか面白かったですよ。じゃあ、次は私ですね」

 蝋燭の光にぼんやりと照らされる教授の顔は、明るい教室の中で見るものとは少し雰囲気が違ってどきりとした。美人だからだろうか、なんだか不気味な感じがする。元々暗いのは苦手なのだ。私は誰にも気付かれないように身震いした。

「これは私がここの院生だった頃の話です。」

 そもそもどうして部屋の中に蝋燭が並んでいるのか。これは図書館情報学専攻のゼミ合宿ではなかったのか。

 事の発端は今となっては曖昧だが、ゼミ生と教授を交えて百物語をすることになってしまった。と言っても百回繰り返すのは難しいので、ゼミ生7人と先生が話し終わったらおしまい。八物語だ。丸くなってから図書館情報学専攻お得意のExcelくじ引きで最初の人を決めて、時計回り。先生の次が私で、私が最後だった。

 怖い話はあまり気が進まない。できれば先生が話し疲れて終わりにしてくれればいいのにと思った。

「図書館旧館、新館とあるのでお分かりかと思いますが、私のいた頃は今の新館はありませんでした。そんなに昔の話ではないんですよ。そこ、笑わないで。

 こんな夏の暑い日で、私は博論が大詰めを迎えていたので大学に泊まり込んでいました。研究室の椅子で仮眠しては論文を書いて、資料を整理しているうちに、私は昼間読んでスルーした論文がやはり欲しいと思いました。それで先程言った図書館――今で言うところの旧館――へ行ったのです。

 今と違って警備員さんにひと声かければどこへだって行けたんですよ。しかも、まあ私はそれなりに優秀な院生だったので。それで旧館へ入ってみると真っ暗で、初めて入る時間外の旧館にはそれなりに戦きました。でもまあ驚いていてもしょうがないので論文のある地下へ降りていったんです。

 消灯後で非常口の灯りしかなく、手に持った懐中電灯で照らされる1m先より遠くは見えませんでした。でも図書館は構造化されてるので、どこに何があるのかくらいは何となく分かるじゃないですか。それでどんどん奥へ行って、目当ての論文をゲットしました。」

 哲也が隣で「こんなの先生の個人的体験だよね」と呟いたので笑ってしまった。笑うと息で蝋燭がユラユラ揺れて部屋中に光が広がった。先生の顔はよく見えない。まるで闇に包まれた旧館地下のように。

「帰る時は来た時と逆の道を行けばいいわけです。見知った図書館ですからどんどん歩いて行きました。皆さんは旧館は分からないでしょうけど私にとっては旧館こそが皆さんの言うところの「メディア」だったわけですから。

 でもいくら歩いても階段が見当たりませんでした。倫理学のエリアのすぐ近くに階段があったはずなのに、その倫理学のエリアが見つからない。完全に迷ったと思いました。歩いて、歩いて、曲がってみたり走ってみたりして、それでも見つからない。自分がどこにいるのかも分からない。気付いたら非常灯も見えないような場所にいて、懐中電灯で照らされる先はただの書架でした。その先も書架。それでも懐中電灯が命綱だったわけですが、ずっと使っていたせいかその頼みの綱の光すらだんだん弱まっているような気がしました。いえ、今から思えば闇が濃くなっていたんですね。

 私にしてはあり得ないことですが、恐怖で立ちすくみました。完全に呑まれていました。

 その時です。夫に声をかけられたのは。

 夫――当時は彼氏でもなんでもありませんでしたが――は院の先輩で研究所でもよく顔を合わせました。顔見知りといったところです。その時私はなぜ夫がそこにいたのかということよりも、知り合いを見つけて安心したことの方が大きかった。

「麻理さん、こんな所でどうしたんですか」

  迷ったと素直に答えると、ここは一階段の裏側だと彼は言って、手を引いて案内してくれました。陽の当たらない地下にずっと居たせいか私の手は冷え切っていたけど、彼の手はもっと冷たかった。それでも安堵と敬愛で彼の手の触れる場所がじんじん熱かった。

 階段を昇って図書館の入口が見えた時、私はあろうことか少し残念に思いました。たった二人きりで誰もいない図書館を歩くのがなんだか特別なことのように思えて、でも外に出たらそれが終わってしまう気がした。それでもずっと図書館にいるわけにもいきませんから。

 まさに入口の扉を開けて外に出ようという時、夫が私の手を離しました。

「あれ、僕忘れ物したこと思い出しました。取ってからまた行くので、またあとで」

「すみません、私の案内してもらったばかりに。研究室で待ってます」

 私は素直にそう答えてまた闇の中に消えていく夫を見送りました。そういえば夫は懐中電灯を持っていなかったのに、どうやって歩くんだろうとその時思いました。

 扉を開けて外に出ると凄まじく湿った熱い空気と主張の強いコオロギの合唱が襲ってきました。そこで初めて私は図書館の中がとても寒くて静かだったことに気付きました。それはもう不自然なくらいに。

 そこで、もう一つとても不自然なことに気付いたのです。夫は昨日、仙台で行われる学会へ行ったばかりでした。今ここにいるはずがないのです。

 それまで怖いとも思わなかった図書館が急に怖くなって、私は後ろも振り返らずに走って研究室へ帰りました。その夜は一睡も出来ませんでしたが、もちろん夫が来ることはあませんでした。

 あれは誰だったのか、あるいは何だったのか、今でも考えることがあります。あれ以来消灯後の図書館には行かなくなりました。これで私の話はお終いです。」

 フッと息の音がして蝋燭が消え、部屋の中を照らす光源は私の目の前のか細い蝋燭ただ一つになった。私だけが光に照らされて周りの人の顔は闇に溶けている。百物語で怖いのは怖い話よりもこの瞬間かもしれない。何より、最後の人が話し終わった時には――

 不意にドアがガチャリと開いて廊下の光が一気に流れ込んだ。蝋燭は風に煽られ、役目は果たしたと言わんばかりに消える。

「まだ起きてたんですか。いい加減に寝てください。明日の論文指導を子守唄にするつもりはありません」

 若干呆れ気味の安形先生を前に私達は動くことも出来ずにいた。安形先生は外から入ってきた。しかし、それなら、さっきの話をしていたのは一体誰だったのか。

「せ、んせい」

 喉から出た声が掠れている。顔に集まる視線から周りの皆が私と同じことを考えていると分かった。

「あの、今まで私達と一緒にいましたよね?」

「いいえ」

 安形先生は不思議そうな顔をした。小首を傾げる。いつもならそれを可愛いと言って騒いでいたが、今はじわじわと迫る恐怖でそれどころではない。

「私はさっきまで倉持先生と飲んでました。あと池山先生も。ここには来てませんよ。おかしなことを言ってないで早く寝てください」

 百物語の一番怖いことは、周りがよく見えないことなのかもしれなかった。