2020-01-11の日記
買取王子から届いたダンボールに物を詰めた。いくらになるのか分からないけれど、部屋から物が消えるだけで私には値打ちがある。
物は少なければ少ないほどいい。物は生きてきた軌跡なので、存在するだけで重い。
dear、月と世界とエトワール、テンカウントなど好きだった作品も含めてかなりごっそり本を処分する。ほかブランド物の鞄などもあるのでそれも詰めるのだが、今日は時間がなくなったので明日夜に続きの作業をする。
午後から早稲田近辺で慶應のピアノサークルのコンサートに行く。早稲田は入試で三度、学祭で一度行ったので土地勘があるつもりだったが、見事に二度迷う。
目的を定めて歩くことに慣れていない。
コンサートの演者の経歴が錚々たる感じでびびる。
打鍵の強さが心地よい。適切な強さで打鍵が行われているので、音にハリがある。音に形があるならば、やや尖った楕円のような形をしていたと思う。
クラシックといってもバレエ音楽とピアノ曲は異なるなあと思う。バレエ音楽は伴奏とはまた違うけれど、やはり踊りや舞台芸術、ストーリーと一体になって作品を作り上げている。これに対しピアノ曲はそれ自体だけで作品として成立しないといけないので、バレエ音楽よりも多くのことを語っている。
早稲田大学図書館を訪れる。平面敷地面積が大きいので空間がゆったりと作られている。
一般文芸書などもあり、読みいってしまう。
晩は焼肉を食べた。焼肉は無限に食べられる。
頭が痛い。かれこれ5日ほど断続的に頭痛が続いていて煩わしい。よく頭痛日記をつけて傾向を把握しろなどと言うが、頭痛で体力を消耗している時にそんな余力はないし、私はいついかなる時も日々あまり変わらない日常を過しているので、頭痛は偶発的に生じる天災である。
映画「秒速5センチメートル」の感想
「どれほどの速さで生きれば、きみにまた会えるのか」
言わずと知れた名作「秒速5センチメートル」、恥ずかしながら今まで見たことがなかったので、先日見ました。
恋愛の話ってくらいしか知らなかったから、もう終わった瞬間「マジ???!?!?」ってなってしまったね。こんな恐ろしい話ってある?恋愛映画じゃなくてホラー映画にカテゴライズした方がいいんじゃない?
辛いとか切ないとかそういう言葉で表現したくない…恐ろしくて美しくてどうしようもなく怖かった。
でも本当に見てよかったなと思うから、見たことない人は見てほしいな。アマプラで見れます。
「言の葉の庭」見た時も思ったけど、新海誠さんは昔の作品の方が好みだなあ。
印象に残った台詞を書いていく。感想にネタバレを含みます。
第二話「コスモナウト」の花苗の独白。
「それでもまだ、遠野くんの姿を見るたびに、もっと好きになっていってしまって、それが怖くて毎日が苦しくて、でも会える度に幸せで、自分でもどうしようもなかった」
「私が遠野くんに望むことは、きっと叶わない。それでも、それでも私は、遠野くんのことを、きっと明日も明後日もその先も、やっぱりどうしようもなく好きなんだと思う」
わかりすぎて号泣したし頷きすぎて首もげそう。自分も(誰とは言わないけど)好きな人のこと好きな時ずっとずっとこういう気持ちで、どうやっても好きでいるしかなくて、それが辛くて幸せなんだよな。
第三話「秒速5センチメートル」の貴樹の独白。
「この数年間、とにかく前に進みたくて、届かないものに手を触れたくて、それが具体的に何を指すのかも、ほとんど強迫的とも言えるその思いが、どこから湧いてくるのかもわからず、僕はただ働き続け、気付けば、日々弾力を失っていく心が、ひたすら辛かった。
そしてある朝、かつてあれほどまでに真剣で切実だった思いが、綺麗に失われていることに僕は気づき、もう限界だと知った時、会社を辞めた。」
もうこれが無理だった。私の考えでは、途方もなく遠くにいる明里に近付こうと藻掻くエネルギーを仕事にぶつけることで転化して生きていたけれども、働くことが明里に近付くことに繋がると自分自身の心を騙し続けることがもはや限界になってしまったんではないかなと思った。
でももう明里はどれだけの速さで走っても、手を伸ばしても、何通メールを送っても届かない場所に行ってしまったわけじゃないですか。もう貴樹は明里を諦めた世界で生きるしかないんだよね。
残酷すぎる。
あの桜の舞い落ちるオープニングから誰がこんな結末を予想できるのか?
何にせよ恐ろしい映画だった。。
映画見ただけで何言ってんだって感じだけど、自分は(自分の精神世界の中にあるスノードームに閉じ込められずに)幸せになりたいものだ、と思ってしまった。
2020-01-09の日記
前記事の部屋の掃除中に昔の日記帳を2冊見つけた。1冊は小6~中1、もう1冊は高3~大1。受験で精神がやられている時期から新しい環境への適応に苦労している時期は日記を書きたくなるのかもしれない。
昔の日記帳なんて何を書いたのか忘れているし、そもそも当時何を考えて何をしていたのかまったく覚えていないのでワクワクしながら開いたらどちらも具合悪くなりそうな内容しかなくて本当にクソだった。
なので、今日は口直しに健全な日記を書きます。今日の日記です。
今日はSLIS以外の専攻の卒論提出締切日でした。
ご多分に漏れず卒論を提出し終えていた私は(提出していなかったら今頃この世にいないんですけど)卒論なんてどこ吹く風で、返却期限日が迫った本を返却しにメディアに行きました。図書館に関する本を借りたんですけど、結局読まなかったんですよね。
本を返してから毎度おなじみの三田さんと合流し、栃木県に向かいました。これは自分用の日記なのでもはや書くまでもないことですが、私の記憶力が壊滅的に弱まった時のために書いておくと、栃木県のコメダ珈琲に行くために栃木県の小山駅に向かいました。
行きの電車は赤羽くらいまで混んでました。あんな11時近くの宇都宮線下り電車に乗って皆どこに行くんだろうと思ったけど、自分たちも周りから見れば同じなので愚問でしたね。チョコを食べながら行こうとチョコを買ったのに三田さんがずっと寝ていたので体中の穴という穴にチョコを詰め込んでやろうかと思ったけど、卒論提出で緊張の糸がほぐれたのだろうと思って何もせず、図書館で借りたばかりの『良心を持たない人たち』を読んでいました。
小山駅からコメダ珈琲までは歩きました。30分くらい歩いたので結構な距離を歩いたと思います。例によって例のごとく道案内は三田さんに丸投げしていて、いつもいつも申し訳ないなーと思うんですが、私は三田さんに丸投げした結果たとえどんなことが起こってもその結果を受け入れられると心から思っているので丸投げしているのです。なので仮に道に迷ったりして7キロ歩くことになったり、リカバリーのためにタクシーに1万出すことになったとしても、私は特にそれを残念に思ったり不満に思ったりはしないし、もしそうなったら7キロ歩くことも自分のカードで1万切ることも躊躇わないと思います。丸投げするから結果に対する責任は私が取ります、みたいな。そんなことになったことは結局一度もないんだけど。でも三田さんといると常識とか理性のリミッターが外れるから、法に触れないことは何でもできる!みたいな気持ちになる。
たぶん丸投げするのやめた方がいいし、もう少し躊躇いを持った方がいいと思うんですけどね。もし次回があったら私もGoogleMapを開こうと思います。
そういうわけでコメダ珈琲に行き、私はエッグトーストとアイスコーヒーをいただきました。食べ終わってから三田さんは旅行の計画を立て、私は本の続きを読んでいました。
帰りは電車までの時間つぶしに三田さんにjubeatをやらせていたら電車を逃しました。ギャグか?
三田さんは途中の駅で降り、私は東京駅で降りて帰路につきました。
帰宅して自室に入ると、見るからに物が少なくて爽快極まりなかったです。
東京駅に着く直前くらいで本を読み終わってしまって、活字を求めてふらふらと本屋に迷い込みました。本屋っていいですね。書籍が集まっているという点では図書館に似ていますが、その存在目的や書籍の流通方式、組織化の方針は図書館とは全く異なるものになります。たとえば、図書館は作品を出版社やレーベルにかかわらず作者の五十音順に排架しますが、本屋は出版社、レーベル別に排架します(出版社に勤務されている先輩がおっしゃっていたんですが、これは在庫確認を簡便にするためだそうです)。だいいち図書館は図書館の無料原則からわかるように無料ですが(頭痛が痛いみたいな文章を書いてしまった)本屋は店なので本は有料です(またしても…。なんて文章だよ)。
とはいえ私にとってはどちらも「本がたくさんある場所」。本が好きなので本屋も図書館もいくらでもいられます。そんな本屋で何も買わずに出てこられたのは奇跡に近いでしょう。ちなみに次に欲しい本は『蜜蜂と遠雷』『ラン』『葉桜』で、あとは文庫化したら欲しいのが『熱帯』『そして、バトンは渡された』です。
とりあえずかねてより読みたかった友人の卒論を手に入れたので、今日明日はそれを読んで暮らそうと思います。
日記おわり。
ゴミ100リットル
昨日まで3日間かけて部屋の物の断捨離をしました。
捨てたものの量、なんと20リットルのゴミ袋パンパンに5袋。つまり100リットルです。
100リットルのゴミと暮らしてた女ってなんなのよ、って思うけど、本当に「ゴミ」だったのはたぶん多くても1袋くらいで、残りの4袋は「ゴミじゃないけど今後の人生で必要とする可能性が低いもの」だったと思います。文芸部の部誌とか、自分の手芸作品とか。
さすがに100リットルも物をなくすと部屋がすっきりしますね。あと燃えるゴミにしてない資源ごみとか買取王子に出すものとかもあるので実際に部屋から消えるものの量はもう少し多いです。とにかく大量にものを捨てたので部屋がすっきりしました。空気が澄んでいる。
有用な経験や知識は共有するというモットーなので、「これを捨てたら心が軽くなった」みたいなものを書こうと思ったんですが、びっくりするくらい捨てたもののことを思い出せないので本当に要らないものだったんだと思います。たぶん。
捨てたもので覚えているのは上記の部活の産物と、使用済みトゥシューズとかかな。他はわからん。寺社仏閣のお守りは捨ててないです。
私は物にあまり思い入れがない方なので特にそうなのかもしれないけど(というか絶対そうだけど)、意外とみなさんも、捨てるのが惜しいものでもゴミ箱にぶち込んだら未練がなくなるから試しにゴミ箱に入れるのありですよ。
部屋を片付けながら思ったのは本当に自分は母親から愛されて育ってきたんだなってこと。あと周囲の友人にも先輩にも後輩にも恵まれていたことが改めてよくわかる。
そうやって周囲の人とつながって気持ちをやり取りしてきたからこそこの部屋の残ってきたものばかりだった。生きるってことは物が増えるってことなのかもしれない。嫌だけど。
まあそういう温かみを感じさせるものも9割捨てたんだけど、でも整理して久しぶりに目にしたことでそういう今までの人生のありがたみを実感したから、お気持ちだけしっかり受け止めてまたこれから頑張っていきたい。
■
卒論締切まで20時間を切っています。
衝撃。職場の推しが部署移動で私のチームから別のチームに移るそうです。同じ部屋で仕事するから、すれ違ったり挨拶したりはすると思うけど、ショックだなあ。
推しのことを好きでいるのは、若干ポーズみたいなところもあって。それでも、若干じゃない部分で、本気で好きだったんだなと思った。好きっていうのは恋愛感情だけじゃなくて、私にとっては人間に対するプラスの感情すべてを指していて。尊敬、敬愛、愛着。そういうのが色々あります。で、それは、ポーズなんかだけじゃなかったんだよね。
しんどいな。
推しの人生観とか、仕事の仕方とかいろいろ好きです。でも、一番私の中に強くあるのは、入社したばかりでまだ何も分からない私のことを色々気にかけてくれて、質問したら何でも教えてくれたり、初めてクレームを受けた時にフォローしてくれたりした、あの一年前の安心感だなあ。
何かを質問すると、教えてくれるのが好きだった。
一人称が「おれ」なのが好きだった。
初めてクレームにはまった時、途中から一緒に聞いててくれて、フォローしてくれて。なぐさめるだけじゃなくてアドバイスくれて。
思えば、私に一番アドバイスをくれたのは推しだった。他の人は基本的に褒めるしかしないから。だから推しは厳しかったと思うし、でも、推しに認められたくて頑張れた。
たぶん、推しは、今に至るまで、私のことをただの頭のいい優秀な人だと思ってる。それだけ。アルバイトとして期待以上に優秀だっただけ。私のがんばりを認めてくれてはいない、と思う。
悔しい。けど、それでいい。
もう二度と推しから私に電話が来ることはないんだな。それがとても悲しい。
卒業より一足早く、部分的な別れになりました。
バレエはいいぞ
11月24日に発表会が終わりました。
発表会前は週4くらいで踊っていて、息をするようにレッスンをしていたんだけど、発表会が終わるとそんな生活も嘘のように終わりました。案外あっけないものですね。
7歳でバレエに出会ってからずっとバレエを好きになれなかった私は、バレエを好きになるために、バレエから逃げた自分を許すために発表会に出ました。私の想定通り、私は今回の結果に非常に満足しています。
バレエに出会えてよかった、そして、11歳で一度離れてよかった。今は心からそう言うことができます。
一人の人間ができることって限られていて、たとえばピアノとバレエを両方極めるなんてことは難しいし、レッスンに出ながらまともに大学受験するのは厳しい。そんな限られた人生の中で、出会ったものがバレエでよかった。
バレエに出会って、苦しんで苦しんで苦しみ抜いたから幸せを感じられた。バレエに出会えてよかった。
そう思えるようになるための、長い長い15年間でした。
バレエのどこが好きか、上手く言葉にできないけど頑張って書くので読んでください。
音楽に合わせてバーレッスンをして、体の筋肉がぐうっと伸びる感覚。
ルルべ・アチチュードからアロンジェする一連の動きが、昔は全く出来なかったのに、感覚が掴めるようになった時の、嬉しさ。
10近く年の離れた後輩が、「rnxさん!」と懐いてくれて、学校やテストの話を聞かせてくれること。
何百回と聞いた音楽が流れると、音楽に合わせて体が勝手に動くこと。
発表会の時の、宇宙みたいに暗い観客席と、焼き尽くすようなスポットライト。
どれも足りないけど、だいたいこんな時に「バレエ楽しいな」って思います。
他のときはクソ辛い〜wwwって思います。ほんとに。爪先とか爆発するんじゃないかなってよく思う。でも、楽しいなって思う瞬間がどうしようもなく幸福で、忘れられなくて、手放せないから、今日も私はレオタードに袖を通します。
明後日もその次のクラスも私はレッスンをします。プリエ、タンデュ、ジュテ、ロンデジャンプ、アダージョ、フラッペ、グランバットマン。7歳の頃から、何百、何千回とやってきて、これからも、何十回もやっていく。上手くできると嬉しいし、思い通りにいかなくて自分の醜いからだを見るとイライラする。だから頑張って直す。ゆっくりと私は美しくなる。そして理想は成長の分だけ遠ざかる。その繰り返しを、愛おしく思う。
苹果の話
「さて、今日はある恋のお話です。追えば逃げ、逃げれば追われる。あれ程上手くいっていたのに、ある日突然そっけない。逃げられた!さあ、君ならどうする?」
「私だったら、追いかけない」
「なぜ?」
「疲れちゃうし」
「確かに、そういうタイプの人もいるね。つまり君は逃げる役目しかやらないと宣言するわけだ」
「どういう意味?」
「両方が逃げるんだから、それはお互いが「私からは近づきませんよ」と相手に言うのと同じってことさ」
「つまり?」
「その恋は実らない」
「輪るピングドラム」第20話での実悧先生と陽毬の会話。非常に示唆的である。
この会話に10年近くずっと囚われているのかもしれない。キスと愛の話が続いている。
「それでいいよ。わたし、恋なんかしないもん。
例えばだけど、相手が逃げたら、私は追えばいいの?それで恋は実るの?」
「実る場合もある」
「そうかな。そういう相手は、逃げ続けて、絶対こっちには実りの果実を与えないんじゃないかな」
「鋭いね。そう、逃げるものは追うものに決して果実を与えない。そうすると、らくちんなゲームが終わるからね」
「ひどい」
「君は果実を手に入れたいわけだ。キスをするだけじゃ駄目なんだね」
「キスは無限じゃないんだよ。消費されちゃうんだよ。果実がないのにキスばかりしていると、私はからっぽになっちゃうよ」
「からっぽになったら駄目なのかい?」
「からっぽになったら、ぽいされるんだよ」
「ぽいされてもいいじゃないか。 百回のキスをやり返すんだよ」
「むりだよ。そうなっちゃったら、 心が凍りついて息もできなくなっちゃう」
「じゃあ心が凍りついて 息もできなくなるギリギリまでキスを繰り返せばいい」
「そんなの惨めだよ」
「惨めでもいいじゃないか。キスができるんだから。なにもしないで凍りついてもおもしろくないよ。だったらキスをして凍りつくほうが楽しいんじゃないかな」
「だったらどうすればいいの?」
「気持ちにまかせろってこと。 キスだけが果実じゃないかな」
キスと果実の話は長くなるので置いておくとして、わかりやすいのがこれですよね。
「両方が逃げるんだから、それはお互いが「私からは近づきませんよ」と相手に言うのと同じってことさ」
「つまり?」
「その恋は実らない」
追わなければ始まらないわけです。でも陽毬は果実を与えられないからいやだと言う。愛するという行為はそれが報われないリスクを常に伴っている。
それこそが愛の本質である。人を愛するとは、自分の箱という安全圏から手を出し、伸ばした手に乗せた林檎を受け取ってもらえないリスクを承知で、相手に林檎を届けようとすること、そして受け取ってもらうこと。それはなかなかできることではない。だから本当に人を愛せる人はなかなかいない。それこそが眞悧の言う「ひとは自分の箱から抜け出すことができない」ということ。