布団大好き!

日記や所感など

バレエと私 2

バレエと中学受験に見事に失敗して中学生になった私は「頑張る」ことがトラウマになっていた。とにかく頑張って失敗するということが嫌だったのだ。

今なら絶対に失敗しないように頑張る、あるいは失敗したとしても諦めがつくぐらい頑張る、という方向へ向かえるが当時の私の取った選択は「頑張らない」だった。という訳で勉強はもちろん、交友関係、部活選びもすべて頑張らないことを念頭に行動した。選んだ部活は週1回の放課後の活動しかなく長期休暇中の活動もない手芸部だった(手芸部の名誉のために書いておくが、私以外の全員は心から手芸を楽しんでいて、かつ学業面でも情緒面でも非常に優れていた)。

 


バレエをやめたことはずっと苦しく思っていた。ダンス部が踊っているのを見ると羨ましくなったし、テレビでダンスやバレエが出ると釘付けになった。何度も何度もバレエを思い出して、やめたことを後悔したり、正当化したり、他のことに浸って忘れようとしたりした。

とにかく私は頑張ることから逃げていたわけだが、幸か不幸か中高の気質は勤勉努力だった。みんな真面目。勉強も部活も全力で頑張っていた。そのような級友達の姿は否が応でも視界に入ってきて、私は違うんだと線を引いていたが、とても輝いて見えて羨ましかった。

けれど、どれだけバレエをやめたことを後悔しようと、今更戻るのはもう無理だった。12歳から15歳というバレリーナの成長に一番肝要な時期をバレエから離れて過ごした私に未来はなかった。

 


そして私は大学受験を迎え、大学生になった。

大学生になってもバレエに対する気持ちは変わらなかった。このままずっと後悔を抱えて生きていくんだと思われた。

 


「その時」は突然に訪れた。

大学2年の夏、その前の歳まで家庭教師をしていた子の付き添いでその子の友達のバレエスタジオの発表会に行った。小さなスタジオだった。公民館のホールみたいな所が会場で舞台装置なんてものはなかった。プログラムは色つきの画用紙にモノクロで印刷したものだった。私は衝撃を受けた。

Nバレエスタジオの発表会はキャパ300人くらいの客席をいっぱいにして大ホールで舞台装置も使って本格的にやっていた。毎回バレエ団から監督とゲストダンサーを呼んでいた。プログラムは印刷所できちんと製本したもので、生徒一人一人の顔写真が載っていた。習っていた当時それは当たり前のことだと思っていた。しかし当たり前ではなかったのだった。Nバレエスタジオは郊外の個人スタジオとしては珍しいほど本格的に指導や発表会をしているスタジオだった。

私は自分の失った(というか諦めた)ものの大きさのショックを受け、そして、どういう論理か分からないが、どうしようもない気持ちに駆り立てられてその日のうちにNバレエスタジオの大人クラスに体験レッスンの予約を入れた。

バレエと私

 

クラシックバレエを習い始めたのは小学校1年生の時のことだった。

バレエを習いたいと言った記憶はない。というかその頃の記憶自体が、おぼろげで断片的だ。家から通える範囲のバレエスタジオをいくつか見学していた記憶から私のバレエに関する記憶は始まる。一番最後に見学したスタジオは、一軒家の一階部分がスタジオで、白い壁にグリーンの屋根と赤い柱が映える、きれいなスタジオだった。生徒たちはお揃いの白いレオタード姿でレッスンを受けていた。

気付いた時には私はNバレエスタジオの生徒だった。

 

何か習い事を始めるのに、7歳という年齢が遅いと考えられることはそう多くない。しかし、ことバレエにおいては7歳というのは遅い方だった。たいていの子は3歳か4歳のうちに習い始める。7歳は手遅れというわけではないが、ギリギリの年齢だった。

そういうわけで私は同学年の皆を追いかける形でバレエをスタートした。スタートの遅れと生来の不器用さと勤勉さの欠如から優位性を発揮することはなかったが、まあまあ楽しくやっていたんじゃないかと思う。楽しいと思った記憶はないけれど、小学校のクラスメイト達に自分がバレエを習っていることを話していたのだからバレエをポジティブに捉えていたのだと思う。

はじめて出た発表会の演目は「ディズニー・ファンタジー」。私が踊ったのは「おおかみなんかこわくない」とエンディングの「イッツ・ア・スモールワールド」。同学年のもう片方のグループはビビディバビデブー(正式名称分からなくてごめん)、一緒に踊った一つ上の学年はケイシージュニアとプーさんだった。スキップして申し訳程度に何かポーズをとるだけのまあ小学校一年生なりの振付だったけれど、ステージでオレンジ色のライトにじりじりと照らされて、暗い客席から何百という視線が降り注ぐのを感じた時の緊張は今でも覚えているし、ダメだと言われたのに家族の姿を探して目を合わせてしまったことも覚えている。

2回目に出た発表会では2つの演目に出た。一つは先輩と踊るものでもう一つは後輩と踊るものだった。前者はディズニーの曲を使ったもので私の学年は人魚姫のカニの踊りだった。後輩と踊る演目はオリジナル作品で真夜中のおもちゃ箱というものだった。兵隊の踊りを踊った。

 

3回目の発表会を迎える頃からか、あるいは2回目の発表会が終わる頃からか、細かいことは忘れたがだいたい10歳前後くらいからバレエが嫌になり始めた。早い。早すぎる。まだ始めて3年だ。毎回レッスンの前に「行きたくないなあ」と思っていた記憶がある。これは今でもそうだけど。

そう感じるようになった原因は大きく分けて3点ある。

まず、同じクラスの子になじめなかった。私は地元の市立小学校ではなく電車とバスで40分くらいかかる国立の小学校に通っていたのでみんなの学校の話についていけなかったし、DSやたまごっちなどといった当時ほとんどの子が持っていたおもちゃを一切持っていなかった。今ならだからなんだという感じだけど共通の話題がなくてそれ以外の話題、たとえば趣味の話とか世間話みたいなもので盛り上がるような年齢ではなかった。親同士の交流はあったので一緒に遊ぶことはあったけどやはりクラスの子から疎外感を感じていて嫌だった。

次にいやだったのは全然バレエが上手くならないことだった。スタートの遅れを取り戻す器用さと勤勉さを持ち合わせていなかったのだ。前述の疎外感からあまりバレエにのめりこめなかったのもある。

バレエが上達しないこと以上に嫌だったのが母親から周りの子と比べられることだった。まあ事実上手くはなかったし、安くはないお月謝と送り迎えの手間をかけているのだから上手くなって目立つ振付をもらってほしかった母の気持ちは今ではよく分かる。

そういうわけで私の気持ちはだんだんとバレエから離れていった。けれど母親の期待を背負っていることを子供心に感じていたのでやめたいと言い出すのはもっと後になる。

 

3回目の発表会は現役時代で一番思い出深い回だった。演目は「不思議の国のアリス」と「水兵さんの一日」。

この発表会はしばらくの間私のトラウマだった。というのも、不思議の国のアリスで途中座る場面で座る方向を間違えたのだ。実際は私ではなく私の前の子が間違えていたのだがDVDをちゃんと見てそれに気づいたのは数年後のことだった。加えて水兵さんの一日でダブルピルエットの着地に失敗した(と思っていた。数年後にDVDで確認したら実際は少しずれた程度だった)。

存在しない失敗に数年間悩まされていたわけで、繊細なる少女の感性にはまったく痛み入るばかりだが、そうは言ってもこれは思い出深い発表会だった。特に3学年で作り上げたアリスの世界が本当に楽しかった。あれから今までのすべての発表会のDVDを見たけれど、小学生の演目として不思議の国のアリス以上にエンターテインメント性と芸術性の高い演目はなかったと思っている。

 

面白いことに発表会での失敗は私のバレエに対する気持ちを良い方にも悪い方にも変えなかった。

ただそれまで通り、どうにもならない行き詰まりを感じて、やめ時をずっと探していた。

 

「やめたい」と宣言した日のことは今でも覚えている。

何度も何度も、やめたいと言おうとして、母の悲しむ顔を思い浮かべて思いとどまり、レッスンで苦痛を感じてはやめたいと思い、思いとどまり、そういうことを何十回と繰り返して、その日とうとう言葉が音になって口から出てしまった。水曜日のレッスン帰り、駐車場に車を入れてから暗くなった中庭を抜けていた。バラのゲートを抜けたところだった。

受験勉強に集中したいと母には言った。今でも訂正していないけれど、嘘だった。受験なんてどうでも良かった。ただバレエから逃げたかった。その一方で、バレエをやめることを惜しいと、もう戻らないであろうことを悲しく思っている自分もいた。

 

やめる日に先生と撮った写真(記憶にない)が先日リビングの棚の奥から発見された。あの日「受験が終わったらまた戻ってきてね」と言われて「受験でやめるわけじゃないから戻ってこない」と思いながら「はい」と嘘をついたことを覚えている。

 

続く。

 

 

初秋

2019-10-14、月曜。最高気温22℃

台風一過の快晴から一変、雨が降って肌寒い。台風の雨は28℃あったのでなんだか蒸し暑かったが今日の雨は秋雨といった感じだ。

夏はベッドで寝ているうちに終わってしまってわたしの入社2年目の最初の月は瞬きをしている間に半分過ぎた。

たった1年でこんなに成長するなんて信じられないと言ってくれる人もいればあんまり評価してくれない人もいて、面白い。

 

太ってしまって、肉が邪魔なので、痩せたい。

 

無力なオタク

 

何もする気が起きない日がしばしばある。

 

原因は日によって様々で、本当に体調が悪い時もあれば何かのタスクに行き詰まっていて逃げ出したい時、何かが思い通りにいかなくてイライラしている時なんかもある。

今日のは最後のものに近いのかな。無力感。

昨日バイト先のギャルと社員2人と計4人で飲んだんですけど、ギャルと知的レベル?が違いすぎて全然話が合わなかったんですよ。知的レベルっていうか…ギャルは頭の回転は速いんだけど、私がシュレーディンガーの猫とか漸近とかPDCAみたいな単語を出すと本気で何それ?って言われる。

「は?(オタクはすぐそうやって大仰な言葉を選んじゃってさあ)」とかじゃなくて本当に分からないんだよね。

世界が変わると言葉が変わる、あるいは言葉が違うと世界が違う、ということをまざまざと感じさせられてしんどかった。

推しもいたんだけど推しは、推しだけは、わかってくれていた、と思いたい。職場でもずっとそうだったから。

 

本を読んだらこのブログに感想を残すことにしているんだけれど読みっぱなしになって感想を残せていない本が大分ある。パッと思いつくだけで『生まれつき美人に見せる』『コンビニ人間』『モモ』『西の魔女が死んだ』『六番目の小夜子』『25時のバカンス』など。積ん読ならぬ積ん書?

感想は生々しいうちに残しておかないと消えていってしまうから早く書いてしまいたい。幸いなことに今は時間がある。卒論もデータ集めだけしていればいいし。

でもそれすらしたくないようなそんな心持ちなわけです。

 

たまにある自罰的になってしまう日。動作コストの大小にかかわらず自分を大切にする行為のすべてが許せない。することもないのに夜更かししたりのどが渇いているのに水を飲みたくなかったり。痩せたいのに食べてしまったり。

こういう気分のむらから逃れる方法を今のところ暇な時間を仕事でいっぱいにする以外に知らない。

いつか倒れて痛い目に合うと思う。

先日そう言ったら友人がもう8月に倒れたじゃん、あれはノーカンなのと突っ込んだ。

確かにそうだ。

 

 

鳥を埋めたよ

 

昨日の昼、内定式を終えて家を出るためリビングの窓を閉めに行くとベランダで緑色の小さな鳥が死んでいた。

なぜ植物も育てておらずエアコンの室外機と何年も使っていない流しのほかは何もない地上6階のベランダを死に場所に選んだのかは分からないが雀くらいの大きさの緑色の鳥がコロンと転がっていた。困るよ、と思ったけれど、放っておいて他の鳥につつかれたり虫にたかられたりするのはもっと困るのでちょうど不燃ごみに出そうと思っていたやかんを被せてとりあえず家を出た。

 

とはいえいつまでもやかんを被せておくわけにもいかない。ベランダに置いておいても分解されず土にも帰らずさりとて遺体(死骸と書くのはどうにも気が引ける)が勝手になくなるわけでもない。10月とはいえまだ暑い。このままでは腐ってしまう。仕方ないので家の目の前の公園に埋めに行くことにした。

何が原因で死んだのかわからない(鳥インフルエンザとかかもしれない)し老衰で死んでいたとしてもやっぱり野生動物は何の病気を持っているか分からないから迂闊に触ってはいけないというのが獣医師の祖父の教えだったのでゴム手袋越しに遺体を拾って紙の箱に入れる。

身体はまだ完全には固まっていなくて、風に吹かれて羽が小刻みに震えていた。体を持ち上げると頭が少し手の中で動く。首の骨を支える筋肉がもう機能していないからだったんだろう。

その時はじめて生々しく、遺体だ、と思った。

それまでは「鳥が死んでるなあ」としか思わなかったのが、手におとといまで生きていた生き物の感触を感じて、これは生き物が死んだものだ、と思ったのだ。うまく言えないけれど、二年前に祖父(母方なので獣医師ではないほう)が亡くなって遺体に対峙した時と同じ恐怖を感じた。

エレベーターに乗って鏡で自分の顔を見ると今にも泣きだしそうな顔をしていた。

でも無理もなかったんじゃないかと自分を擁護したい。だって私は棺桶を担いだことすらないのだから。

 

公園の土は子供たちに踏まれて固くなっている。本当は木の根元に埋めあげたかったけどスコップもシャベルもなかったので小鳥とはいえちゃんと埋められるサイズの穴を掘るのは無理だなと思った。だから小学校の倉庫裏の砂の山に埋めた。鳥さんごめんよ、と思いながら背を向ける。砂の中にもきっと虫がいるからいつか土に還れるといいね。輪廻転生は信じてないけどもし生まれ変わったら次に死ぬときはもう少しましな場所を選んでね。

 

後日談というか今回のオチ。全身10か所蚊に食われました。

 

それはそうと輪廻転生で思い出したんだけれど私の母には上のきょうだいが3人いて、そのうち次兄と姉は生まれてすぐ亡くなっているんですが、次兄(私にとっては叔父)の命日が私の誕生日だったりするんですよね。だから私がその人の生まれ変わりだと言われたこともあったり。いぬぼくとか読んでると生まれ変わりって結局どこまでその人なの?と思ったりもするしみんな自分の好きなように考えればいいと思うけど。

まあ私は生まれてすぐ死んだ記憶とかないのでよくわかりません

 

おわり

 

 

最高の夏にしようぜ!

 

夏、楽しんでますか?

 

海、プール、花火、バーベキュー、旅行、合宿。かき氷、タピオカ、焼き肉、フラペチーノ。夏は楽しいものが沢山ありますね。おれは詳しいんだ。皆さんはいくつ楽しみましたか?

私は友人が夏をエンジョイしている中、8月の下旬のほとんどを自室のベッドの上で過ごしました。インフルとRSウイルスこじらせて肺炎半歩手前までいく貴重な経験をしたので大して面白くもないですが備忘録として書いておきます。

 

 

8月20日

バイトしてました。推しがいて、しかも推しの顔を見ながら仕事できる席で、最高だった。

青森のお土産があったので推しにも持っていったら「また行ったの」と笑われた。私が前にも青森に行ったことを覚えていたんだ、と嬉しくなりました。まあ推しは頭がいいからそれくらいあたりまえ体操なのかもしれない。

推しに仕事(再電消化)を頼まれて、全部終わらせて報告したら「それ全部終わったんだね。流石」って言ってもらえました。推しは3か月に1回くらい「流石」って言ってくれる(前回は5月あたりに残業させられた時)んだけど、「流石」って誉め言葉の威力やばくないですか?完全に私のツボを熟知していてすごい。推しの口から3か月に1回発せられる「さすが」の3文字のために日々頑張っています。

思えばこの日が8月のピークだった。

 

8月21日

午後くらいから微熱と胸の痛みがあった。推しに発情してるのかなと思ったのは流石に盛ったけどまあ軽く調子悪いのかなと思って歯医者から帰ってからとりあえず寝てた。

 

8月22日

微熱下がらず朝からゴロゴロしてた。バイト休んだけど「推しもいないしわざわざ本調子でもないのに行くことないよな」くらいの感じだったし推しがいたら5000%行ってた。

夕方くらいから8度台になったような気がする。夜中に9度台とか出て草生えた。

草生やしてる場合じゃないんだよ。

 

8月23日

シフト入ってたし推しの出勤日だから絶対に出勤したかったのに朝から39度台で腰抜かした。正直頭痛もないから全然平気だったけど9度台だしと思って病院に行ってから出勤すると電話したら推しが出てめちゃ嬉しかった。

 

8月24-25日

あんまり記憶がない。38-39度台でずっとあったかいなと思いながらゴロゴロ寝てた。このあたりから「いつになったら熱下がるんだよ」と毎秒思っていたが下がる気配がなくてウケた。やっぱり夜中に39度とかあってめちゃウケた。

 

8月26日

一向に熱が下がる気配がないのでかかりつけの病院へ行く。採血と点滴と吸入とレントゲンとインフル検査と溶連菌検査とRSウイルス検査と尿検査ととにかくありとあらゆる検査と処置をされた結果インフルとRSで肺炎起こしてると言われて完全に笑ってしまった。点滴で少し元気になりこの日は38度台のまま終わった気がする。

この日の夜すごく肺が痛かった気がする。

かかりつけの病院行くとどういうわけか毎回必ずシーシャネブライザーで何かしらの薬を吸うんですけど、あれ吸うと一時的に悪化みたいな感じになりませんか。痰が出るのかなあ。

 

8月27日

37度台で勝利したと思ってゴミ捨てと洗濯物干ししたら39度台になってウケた。

インフルの場合の出勤規定を聞きたくて職場に電話したら推しが出て大歓喜したけど、推しからの折電とともに28日のシフトが砕け散って泣いた。ショックと申し訳なさで「いつ治るんですかね...」と泣き言を言ったら推しが電話の向こうで少し笑って「まあ...早く治しな 笑」と言ってくれて萌えた。「早く治しな」ってヤバない?「おだいじに」とかじゃないんですよ。「早く治しな」っていうこのちょっとした上から目線がもうたまんないんだよね。

 

8月28日

解熱しなかったことで30日のシフトが散ったことが確定したから電話したら推しじゃなくて五島さん(仮名)が出て泣いちゃった。RSウイルスって言ったら「繊細...なんですね(笑)」とか言うから次回出勤日絶対殺すと思ったのに結局殺すの忘れてたわ。命拾いしてよかったな。

マジで熱が下がらなくてウケたからまた病院に行ったら炎症反応の値が悪化しててウケた。ステロイド点滴されて内服も追加処方されて、「(ステロイド)飲む・吸う・打つ!」って感じでファンキーだった。私は反ステロイドとかでは全くないから別にいいんですけどね。でもステロイド浴びたお陰で熱はこの日の夜に完全に下がりました。

 

8月29日

平熱。でもちょっとでも熱が出たら31日のシフトが散るのでひたすらじっとしてた。

 

8月30日

平熱だったので31日に出勤できることが確定して喜び勇んで電話したら石崎さん(仮)が出た。「インフルとRSウイルスでした」って言ったら「ヤダそれ赤ちゃんとかがなるやつじゃんwww」て言われてウケた。電話切った後「rnxさんRSウイルスだってwww赤ちゃんwww」ってずっと言ってたらしくて31日に出勤したときにめちゃ赤ちゃん赤ちゃん言われました。「赤ちゃんだからしょうがない」が口癖だけど他人から赤ちゃんって言われるのは新鮮で、新しい扉を開くかと思いましたバブ。

 

8月31日

病院に行ってから出勤したは良いけど途中で咳が止まらなくなってしまって(生理的に)泣いてた。推しに呼ばれて「咳が止まらないから帰りなさい」とやんわり言われ、いつまでも仕事ができないもどかしさと申し訳なさで半泣きになってたらまたしても「まあ、早く治しな」と言われて萌え泣いた。推しという生き物はどうして「治しな」という言葉のチョイスをするんですかね?普通言わないでしょ...少なくとも目上の人には言わないじゃん。このなんか距離を詰めつつ上下関係を作ってくる感じがたまんない。

席が神で推しと向かい合うような感じの席でずっと推しの顔を見ながら仕事できて幸せだったのに在社時間3時間で完全に泣いちゃった。

推しに承認要求送って「推しさん承認お願いしますー」って言ったら推しが黙って肯いたのも萌えたな。「はーい了解です」とか他の人に言うのに私にはなんも言わずに肯くだけっていう雑な感じがよくないですか?分かりますか?

 

 

そして9月3日現在、何やかんやしつこく咳が残っててウケるけど体調は完全に回復して周回遅れになった卒論に取り組むべく某大医学部病院のドトールに陣取っています。

今切実に思うのはとにかく推しに会いたい。そして卒論を葬り去りたい。

卒論の準備に一定のめどが立ったら、というか明日か明後日くらいになったら、推しをご飯に誘いたい...。

 

読み返したら推しのことしか書いてなくてウケる。

 

 

最近

 

例によって例のごとく推しのことしか考えていないのですが、日々何してるかもちょっと書いておこうと思います。

 

まず水曜日。

元彼と共通の知人とご飯食べました。用があって私の地元に来ていたので、せっかくだから、ということで。

最初に向こうから連絡を受けた時は実は内心「マジ?!」と思ってたんですが、実際会ってみるとやっぱりいい人だし、話していて楽しい。元気そうでよかったとも思う。そりゃそうですよね、3年も付き合ってたんだから。

元恋人に対してそんなに肩肘張って心のバリア作らなくていいんだなと気付けたのはよかったです。料理もおいしかったし。

 

そのあとトゥーシューズ買いに行きました。ポアントしたときにつま先で床を感じる状態になっていたので流石にまずいだろう、と。前回と同じSwanで、ストレッチトゥリボンも買ったのですが面倒でまだつけていない。

あと成分献血をしました。血小板かな?(うろ覚え)

献血はもう慣れたので痛みもそのあとの貧血も耐えられたんですけど、その日普通にレッスンしたら翌日起き上がれませんでした。

よい子のみんなは献血の後は安静にしていようね。

 

そういうわけで昨日の木曜日は一日中寝てました。朝ごはん食べてベッドで寝て、起きて顔を洗って床で寝て、昼ご飯を食べてテーブルで寝ました。

あれは本当にしんどかった。いよいよ鬱になったかと思いました。

 

今日はこれからまたちょっと卒論を進めたいです。

英語文献の要約、多次元尺度構成法、データ収集、など。どうなるかわからないけれどがんばります。

今日レッスン終わったらしばらくバレエも夏休み。それが明けたらいよいよ発表会まで3か月です。もう振付始まってから折り返し地点まで来ているんですね。わたしのバレエ人生もいよいよ終わっていくなと感じています。ようやく、ね。小学生の時にできなかった「終わり」を、今やっとできている。そう思います。これでやっと終われる。好きとか嫌いとか、そんな言葉で表せるものじゃないけど、あえて言うならバレエが好き。そう言えるようになるための10年間でした。あと少し頑張ろうね。