布団大好き!

日記や所感など

笑う義務がある

 

舞台の上での話よ?

 

上手くいってない時ってしおらしくしとかなきゃけないとか思うじゃん。よろけたりした時に笑ってたら「何わろてんねん」て思われそうで。必死でやってるんです、それでもできないんです、できなくて反省してますみたいな感じを表情でアピールしなきゃいけないかなみたいな気分になるじゃん。

でもそれってバレエではやっちゃいけないんだよね。やりがちだけど。

舞台の上で曲の途中で失敗しても、仕切り直して次の音からまた何事もなかったかのように踊らなきゃいけないし、そうするのが正解。お客さんは意外と失敗を印象に残さない。1回しか見てないんだから当たり前だよね。失敗よりも何倍も長い時間キメてる様を見せれば、当然キメてる様が印象に残る。

たとえ失敗してなかったとしてもよ、楽しそうに自信たっぷりに踊ってる方が上手そうに見えるのよ。楽しそうに踊ってるとそれだけで惹かれるのよ。

あと楽しそうにしてると必然的に体が上がるし目線も上がる。良いポジションになるわけですよ。

That's why 自信ありげな人が上手く見える。

 

これはレッスンでも同じで、たとえ上手くいかなかったとしても目線を上げて客席を意識して普段から踊った方がいい。

めっちゃ恥ずかしいけどね。

こいつ回れないくせに自信たっぷりじゃんとか思われたくないじゃん。頑張っているけどうまくできなくて追い込まれててかわいそうって思わせといた方がたぶん、楽じゃん。でもそれはダメなのよ。

舞台に立つ覚悟決めたらいつだって自信たっぷりじゃないとダメだし、自信を裏打ちするだけの努力をしないとダメなのよ。もっと出来るでしょ、ちゃんとやんなさいって言わせる覚悟持たないとダメなのよ。

 

てか、むしろ、テクニックでどうしても引けを取る分表情作らないとまずいのよね。

そう思うから、雪の精のワルツだって、途中で間違えたとしても最後まで踊りきって、緞帳が降りきる瞬間まで笑っていたいと思う。足の骨の一本や二本折れたって笑っていたい。

だって私はバレリーナだから。

 

 

なぜ踊るのか

 

この記事は15分で書き上げる。

 

なぜ踊るのか。これは私がずっと考えていることです。最近本当にバレエやめたい。1日15回くらいバレエやめたいって本気で思っています。多分もう後戻りができないから。どれだけやめたいと思っても言っても私にはもう死ぬ気で頑張る以外の道がないのです。

くるみの雪の精の振付が終わり、お菓子の配役も発表されました。スペインです。

マジ?

本当に専科で発表会出ちゃうわけ?

 

なぜ踊るのか。なぜ身の丈に合った大人クラスではなく、専科なのか。

お金と時間かけて自分からストレス引き受けに行ってそれでいて報われることもない、のに、なぜ私はバレエをやっているのか。本当にやめたい。ステージの上で一人倒れたらどうしよう。周りの目が怖い。どうして下手なのにこのクラスにいるんだって絶対思われてる。

そう思われながら泣きながらでもやる覚悟を持って飛び込んだけど、今はもうなんでそんな気持ちになったのか分からないしただただ逃げ出したい。

ただ、もう一度あの時をやり直しても同じ選択をしてしまうとは思う、。

 

はっきり言って病気でしょ。地獄に向かってダッシュで飛び込むのと一緒。崖の上のポニョじゃなくて崖の下のポニョ。ほんとに。

 

ステージの上で光を浴びる感覚を忘れられなかったとか、バレエを辞めなかったルートに戻りたいとか、自分の失敗を回収したいとか、踊ってて楽しいとか、大人クラスが嫌だとか、なんか色々理由はあるけど、どれも十分条件にならなくて、どれも違って、私の現状を肯定してくれるものは何もありません。無。Null。

 

怪我でもして踊れないからだになったら踊れなくてもだれからも責められないよね、とか。

 

周りの人みんなから軽蔑される覚悟で逃げ出す選択肢だってあるよね、とか。

 

逃げ道だっていくらでも思いつくけど、どれを選んでも、どこへも行けなくて。でも目の前に道があるわけでもなくて。泥の中を奥深くに進んでいるのか前に進んでいるのかもわからないまま藻掻くしかない。藻掻いてもう精いっぱいになっていてもだからといって許されるわけじゃないけど、死ねって言われるまではいかないかな、とか。

 

もう道がないです。逃げ道もない。退路を断つのが好きなんですけど、今までの人生で経験した行き止まりなんてなんも行き止まりじゃなかったよなと思った。

 

 

オチはないです。結局この記事は10分で書きました。

ねじれの位置

 

という言葉を私が初めて知ったのは、中学校で幾何を習うよりもずっと前、小学校3年生の時。

重松清さんの『きみの友だち』の章タイトルの一つにこの言葉があった。それです。あの頃中学入試の国語で『きみの友だち』を使うのが大流行していて、とにかくどこの学校の過去問を解いてもきみの友だちの一節が引用されていたし、入試問題を意識して作られている模試でも「きみの友だち」を見たことがある。

あまりによく目にするので軽率に図書室で借りて読んだら話が重たすぎて泣いてしまった。まだ胸を張って読書家を自称できた頃の、重松清作品との出会いです。(余談だけど、重松清作品の中で『きみの友だち』ってかなり読みやすい方ですよね。中学入試だけあってちゃんとライトなものを選んでいたんだな。)

ジャングルジムでふたり、ねじれの位置になって腰掛ける。ねじれの位置というのは中学で習う範囲では、三次元空間での直線同士の位置関係を表していて、どこまで伸ばしても決して交わらないことを言うんですよね。どこまでいっても交わらない。口の中で転がしてみると、なんとなく「はじまらない・つながらない・おわらない」と似た響きがある気がしませんか。しないかな。

 

江國香織さんの『号泣する準備はできていた』を読みました。『すいかの匂い』がすごく好きだったので作家買いです。

江國香織さんの文章って良いですよね。とても繊細でこまやかで、人間の感情をものすごい高解像度で描写している。決してくどくはないんだけど、言葉にしきれないような体温だとか心の揺れまでが苦しくなるくらい伝わってくる。だから『すいかの匂い』とかめちゃめちゃ怖かったですね。あれは買ってよかったと思えるお気に入りだけど、向こう3年は読みたくない。怖い思いをしたい人にはおすすめします。

『号泣する準備はできていた』は短編集。語り手の年齢も性別もばらばらで、恋人がいたりいなかったり、結婚していたりいなかったりする。世界観の繋がりもない。そんなばらばらの物語が集まったものを読んで、ぼんやりと受けた印象が今回のタイトル「ねじれの位置」。どの話の主人公も、一番近くにいる人とまったく交わっていないんですよね。それこそ、はじまらない・つながらない・おわらない、みたいな。触れているのに触れてない。体を重ねても同じ食べ物を食べても分かり合わない、分かり合えない。

その空虚さが江國さんの繊細かつ濃密な文章で体の中に流し込まれて、読み終わった直後の今は正直かなりいっぱいいっぱいです。江國さんの文章ってとても甘やかじゃないですか。甘やかって言ってもふんわりと甘い香りが漂うようなものじゃなくて、粘度の高い蜂蜜を指先でもてあそぶような。蜂蜜を直接胃の中に流し込まれたような感じ。どうやったらあんな軽やかな文体で重い文章を書けるのかなあ。すごい。

 

一つ選んで感想を書くとするなら「熱帯夜」。女性同士の恋人の話なんですけど、百合ってまさにこれ!ってことが書いてあって3回くらい肯いた。

行き止まり。実際、私たちは行き止まりにいるのだ。どんなに愛し合っていても、これ以上前に進むことはできない。たとえば結婚も離婚もなく、たとえば妊娠も堕胎もない。望みはみんな叶ってしまったし、でも私はもっともっと秋美がほしい。(p.52,l.2)

これ以上進む場所なんてないのにもっと先に行きたい。この語り手は結婚がしたいわけでもないし結婚したいとも言わないんだけど、それでも、自分の中で再現なく増幅する愛をどこかに持っていきたい。でも行き場がない。行き場のない思いがじっとりと鬱陶しく立ち込めるさまが、まさに「熱帯夜」というタイトルにふさわしい。

 

なんか正直言ってこの本は感想を書くのが難しいです。何か言葉にせずにはいられないんだけど、いざ文字に起こすとどの言葉も私が感じたものを表現できずに上滑りしてしまう。というか感じるのもけっこう難しいです。全体を通して流れる「ままならなさ」みたいなものはすごく分かるんですけど、すべてを理解するには私はまだ幼すぎるんだと思います。

中学生の時に角田光代さんの『対岸の彼女』を読んだ時も同じように感じたなあ。

こういう本は本棚に眠らせておいて、大人になってからもう一度読みたいです。そうやって時間差で理解できた時ってえもいわれぬ感動があるというか、物語は作者が書いて読者が読んで解釈してはじめて物語になるんだなと思う。読者たる私が今まで生きてみて読んで感じて作り上げたフィルターを通して物語を理解するところまでが物語なんです、みたいな。このあたりは主張が分かれる話だと思うんですけどね。でももっと平たく言うと、同じ本でも小学生の時に読んだ印象と大人になってから受けた印象が変わると感動するじゃないですか。そういう話です。

 

今の話で思い出したけどスピッツの「空も飛べるはず」とかも小学生の時と中学生の時と今で解釈が全然違うなあ。小学生の時はどういうわけか完全にバッドエンドだと思ってて、中学生の時はメリバだと思ってて、今はいやこれ普通にハピエンじゃんと思ってる。

いい加減に聞いてたわけじゃないと思うんですけどどうしてこんなに印象が変わるんでしょうね。

人間の情報認識って不思議だなあ。やっぱり解釈する主体の影響を免れないんですよね。うわ、オートポイエーシスじゃん。

 

オチはない。

 

 

 

瀬尾まいこ『図書館の神様』を読む

 

瀬尾まいこさん、めっちゃ好き。好きな作家さんランキング作るなら、堂々一位は橋本紡さんで、二番目に好きなのが瀬尾さん。瀬尾まいこさん。

『図書館の神様』は中学生か高校生の頃に学校の図書室で読んで、それからずっと心に残っていた作品。たぶん2回くらい借りたんじゃないかな。最後に読んでから確実に5年以上経った今、本屋で再会したこの本を自室の本棚へ迎え入れました。

 

話の筋としては瀬尾さんお得意の、穏やかな日常がゆっくりと流れていく中で主人公の内面がグラデーション状に変化していくもの。

主人公の早川清は名前の通り清く正しく生きてきた新卒一年目の国語講師の女性。清く正しく、何事にも全力で。中学生の頃の皆がいい加減にこなす掃除や小テストでも手を抜かず、部活のバレーにも全力投球。

そんな清の清く正しくまっすぐな人生はある時突然の終わりを迎える。バレー部の主将として部員を叱責したところその部員が翌日自殺してしまい、周囲から孤立してしまう。今まで築き上げてきたものがすべて崩れ、逃げるように遠方の大学に進学した清は当初の夢であったバレーを続ける未来を捨て、「日本人が日本語を勉強するという一番楽そうな道」という理由で文学部に進学し、「バレー部の顧問になれたらいい」といういい加減な理由で国語講師として近くの高校に就職する。

本編の時間軸はこの高校に赴任したところから始まる。目指していたバレー部ではなく部員が一人しかいない文芸部の顧問になった清。文学なんて興味もないし面白くもない。そう思っていた清だったが、たった一人の部員である垣内君との交流を通して、世界の見方を変えていく。

 

あらすじここまで。

 

何がいいってこれ「許し」の話なんですよ。高校生までの清は杓子定規で、自分で決めたルールを守ることが最善であると考えていて、そこから外れるものを許さない。ルールに乗っていたころはルールを守らない周囲を許さないし、自分が自分の決めた正しさから外れてしまってからもずっと自分のことを許さない。そんなに自罰的になる描写はないんですけど、描いていた正解の道を外れてしまった自分を肯定しないんですよね。

それが物語が進むにつれて、清さや正しさの周りにあるもっと鮮やかなものに気付くようになる。シュートが決まった後ハイタッチすることを、以前であれば「早く持ち場に戻って次の守備に備えたい」と義務のように捉えていたのが、「チームみんなでないスプレーを喜び合うのって楽しいね」みたいに思えるようになる。いつしか清は中高生の頃に思い描いていた道を外れて地方の高校で教師をしている自分を肯定できるようになっているんです。それと共に生徒との交流も少しずつ楽しく思えてくる。バレーを続ける未来がなくなったからとりあえずなんとなくしょうがなく選んだだけだった教師生活が、しっかりと色を持ったものになっていく。

物語の最後、何か劇的な出来事があるわけじゃないんですが、この物語が許しの物語であることを強く思わせるものが登場します。自殺したバレー部員の母親からの手紙です。

「今、あなたが添える花は、とても永く花を咲かせています。一ヵ月に一度、花を替える必要はないような気がします。一年に一度、あなたの時間が空く時だけで十分です。いえ、そうしてほしいのです。」

失敗した部員を責め、彼女が自殺したことによって周囲から責められ、自分でも自分のことを許せず、投げやりな日々を送っていた清。高校生の頃に清を責めた同級生はきっともう清のことも自殺した女の子のことも忘れてるけれど、他の誰でもない部員の母親からはっきりと許されることで、清は前に進んでいけるんではないでしょうか。

 

特に印象に残った部分が何か所かあるので引用させていただきます。

 

まずは文庫版p.88。文芸部員の垣内君に詩を書かせて、それを読んだ清の感想。

垣内君を作っているどの部分がこんな言葉を生み出させるのだろうか。垣内君のどういう経験がこの言葉と結びつくのだろうか。

この感覚、めっちゃわかるーーと思った。どんな言葉をどんな風に繋いでいくかってその人が今までどんなことを経験して、どんな言葉を体の中に入れたかで形作られていくじゃないですか。どんな本を読んでどんなことをして何を感じたか。だから文章には人となりが表れると思います。同じ感覚を清(というか瀬尾さん)が言葉にしていて、無性に感動していた。

この文章を書いている私は、いったいどんな人に見えるんでしょうか。

 

次に、p.112.不倫相手である浅見さんと空港で飛行機を眺めるシーン。パティシエの浅見さんが、昔はパイロットになりたかったと語る。

「(略)。成長すると自分の世界がわかってくるのかなあ。昔は自分にだって乗れるはずだって思ってたから、飛行機が好きでパイロットに憧れてた。子どもの頃は何だってできるって思えて、何だって大好きになれたけど、そのうち、自分の特性みたいなのが見えてきて、飛行機になんて乗れないことがわかってしまう。そうなると、ギターとかケーキとか自分で動かせる範囲のものを好むようになっちゃうんだよな。そうして、好きなものもできることもどんどん削られていくんだ」

ここ読んで泣く大人、無限にいそう。

中学受験も文理選択も大学受験も自分の選択肢をゆるやかに削り定めていたけど、就職活動で本当に自分のできることって限定されたし限定したと思う。自分が何者になるかを決めてしまった私にとって浅見さんの言葉は痛い。子どもの頃は何だってできるって思えた。母親に「rnxは頭がいいし美人だからN●Kのアナウンサーとかになれるよ」と言われれば「●HKのアナウンサーになりたい」と素直に本気で思えた。でも今は私はアナウンサーになるには足りないものが多すぎることを知っている。だから就職活動の時に目指そうとも思わなかった。そういうことだ。

でも大人になってできないことが増えるって必ずしも視界が狭まっていくことじゃないと思うんですよ。たくさんの大きな夢が目に入ってくることはもうないけど、世界の解像度みたいなものが上がったと思う。「働く大人になる」というふわっとした将来像が、「色んな会社と関わって、ITでビジネスを変える人になる」程度に細かくなる(こうやって書くと笑っちゃうくらいざっくりしてて頭が悪そう)。コンサルタントとして色々なキャリアの積み方があることだって知っています。コンサルタントになるって決まったって道が一つに定まったわけじゃなくて、もっと細かいところで自分が何に興味を持って何を大切にして働いていくのか、選ばなきゃいけないことはまだまだたくさんある。選択肢が狭まっていたらむしろ楽なんじゃないのと思う局面の方が多いです。

パイロットにもアナウンサーにもなれないけど、幸か不幸か私の未来はまだ広がりを持っていると思います。

好きなのか好きじゃないのかわかんないままずっとしがみついているバレエも、自分の力で動かせない要素が多すぎるけど、自分の手で動かせないものに向き合い続ける苦しさをまだ味わい続けたい。

 

これは書くか迷ったんだけど、p.162。主人公の清が頭痛持ちなんですが、彼女が頭痛で寝込む場面。ちなみに、瀬尾まいこさんの作品には頻繁に頭痛持ちの主人公が登場します。ご本人も頭痛持ちなんでしょうか。

ただの頭痛兼腹痛なのに、手を握りしめて、不安そうに見つめてくる浅見さんがおかしかった。

 だけど、そのおかげで、私は元気になった。薬ほど即効性はないけれど、頭痛も腹痛も吐き気も少しずつ小さくなって消えていった。本気で心配してくれる他人がいれば、薬なんて必要ないんだって、その時知った。

これもめっちゃわかるってなった。私も頭痛持ちでよく彼氏(今は元がつきますが)の家で頭が痛くなって寝てたことを思い出しました。痛みでぼんやりしながら寝ていると彼が頭を撫でてくれるんですが、そうされると無性に安心して、気付いたら眠ってしまっているんですね。起きると痛みは治まっていて、近くで彼がゲームとかしてるの見て安心する。

安心。

彼と過ごした時間、私が抱いていた感覚の大部分を占めるのがこの安心感だったなとふと思いました。全力で無防備になれた。

あんな風に自分の一番柔らかい部分を曝け出す相手は今いなくて、それでも今けっこう楽しくて、幸せで、でもたまにあの頃が懐かしくなったりね。

 

まだ続きます。これはちょっと笑ってしまった場所。垣内君と清が図書室の書架の整理をする場面、p.172。

「この図書室、本の並びが悪いと思いませんか? そもそも日本十進分類法なんて、今の高校生のニーズに合っていない。探しにくくて仕方ないでしょう。教科別に並べ替えましょう」

これは 図書館情報学専攻の人間として笑わざる得なかった。日本十進分類法。Nippon Decimal Classification、略してNDC。図書館学や図書館情報学を学んでいれば絶対に誰でも知っている基本中の基本。今の日本の図書分類はこれに基づいて行われています。学問領域を10に分類してその大分類をさらに10の中分類に分けて…と階層的かつ排他的に学問領域を分類していき、そこに本を当てはめる。現代の図書館利用者のニーズに即していないというのはよく言われている話で、これに代わる分類法も提案されてはいますが、実体を持った本を扱う図書館では書架分類という概念を捨てることができず、また今までNDCでやってきた歴史があるためにわざわざ変えるコストを取ることもできず、多くの図書館では結局NDC分類で配架、ないし排架しています。

瀬尾まいこさんってもしかして司書教諭の資格とか持ってらっしゃるのかな。

でもこの分類法の議論って決着がつかないまま消えていくと思うんですよね。今後50年、100年先の未来を考えた時、紙の本っていうのはいずれなくなっていくと思います。全部電子書籍になっていく。電子書籍になれば一つの本を一つの場所に置いておく必要もなくなるから、排他的に分類する必要はなくなる。もう検索とリコメンデーションができれば良くなっていく。分類じゃなくてタグ付け、主題付与が人の情報探索を支援するようになる。本棚を回って目についた本を手に取る行為は推薦システムが支援するようになる。と、思います。良し悪しは別としてね。

そもそも電子書籍が主流になる時代になったら「本」という情報パッケージの概念がどこまで保たれているのかも疑問ですけどね。

柄にもなく図書館情報学の話をしてしまった。こうしてみると私ってけっこう図書館情報学が好きなのかもしれないですね。

 

最後に、卒業を控えた垣内君が文芸部の活動についてスピーチする場面。p.186。

「文学を通せば、何年も前に生きてた人と同じものを見れるんだ。見ず知らずの女の人に恋することだってできる。自分の中のものを切り出してくることだってできる。とにかくそこにいながらにして、たいていのことができてしまう。のび太はタイムマシーンに乗って時代を超えて、どこでもドアで世界を回る。マゼランは船で、ライト兄弟は飛行機で新しい世界に飛んでいく。僕は本を開いてそれをする」

これ本質情報ですよ。違いますか? 物語に触れるとその物語の中で生きている人間の生を追体験することができる。自分の持っていなかった感情に触れることができる。そして、物語に対して心動かされることで自分の中にある感情を知ることができる。自分は何にどんなことを思う人間なのか。ベッドの上で、寝転んで本を読みながら、目新しい自分に出会うことができる。

文学の良さってこれだよね。

 

読み終えて感じることとして、やっぱり瀬尾まいこさんめっちゃ好き。正直地雷だなって思う作品もあるんですが(そしてそういう作品に限って私の推し作品より世間から評価されていたりする)、総じて瀬尾まいこさんの持つ世界のやさしさが好きです。

 

以上

 

点と点を繋ぐ線が世界を作る

 

「沿線」という世界の話。

 

千葉県に住んでいると思うんですけど、路線によって沿線地域の雰囲気って随分変わりますよね。東京都とかもそうだよね。神奈川や埼玉とかもそういうとこありませんか?まあ埼玉県のことは詳らかには存じ上げないんですけど。

たとえば千葉だと、京葉線総武線常磐線、京成線あたりが主要な路線ですが(ちなみに千葉県には東葉高速鉄道とか北総線とか面白い路線が他にもあるので興味がある人は調べてみてね)、各路線によって沿線の雰囲気が全然違います。一番顕著なのは京葉線じゃないかなあ。海浜幕張以北は東京湾岸の埋立地をずっと走ってるので、キラキラした新興住宅地やオフィスビル街、工場地帯と生気のない景色が堪能できます。対照的なのは総武線。昔から人間が生活していた場所を走ってるので、景色の生活感がすごい。生活の権化かよって思う。

 路線によって沿線に独特の雰囲気が生まれるのって不思議だなあと思います。似たような雰囲気を持った土地を繋いで路線を作ることで必然的に似るのか、路線ができたことによって共通の雰囲気を纏うのか。卵が先か鶏が先か、みたいな。

鉄道会社って不動産業をやってるじゃないですか。ていうか鉄道目指す人って列車の運行よりも沿線開発の方に主眼を置いてる人の方が多いくらいですよね。街づくり。そういう側面が強い路線なんかだと、さっき卵が先か鶏が先かみたいな話は、後者になるんじゃないかな。線を引くことで世界が形成される。

そうだとすれば(不動産系を志望したことないし社会学とかかじったこともないので話がかなりいい加減なのは許してください)路線を作るって単に移動手段を確保するだけじゃないとても創造的な行為ですよね。その土地の物語を作る。沿線という世界を作る。

すごくない?

まあ全部フィーリングで適当に言ってるだけなんですけどね。

 

普通列車や徒歩、ないし自転車で移動してると土地の雰囲気がグラデーションのように変化していくのを感じられるのでそういうことをよく考えるんですが、これが新幹線や飛行機、高速道路での移動になるとそうはいかなくなりますよね。後者の3つの交通手段って、基本的に出発地点と到着地点しかなくて、途中の景色ってあまり意識されないんですよ。だから線の移動じゃなくて点から点の移動になる気がする。

だから何だって話ですが土地と土地のつながりが意識されないのって不思議だなあと思ったり。ハウルの動く城みたいに、ドアを開けたらそこはウェールズでした、みたいな感じがする。

でも、こうも思うんですよ。高速道路の移動って確かに周りの景色は意識しないし、壁がずっとあったりすると今どんな場所を走ってるのか分からない。IC周辺以外の場所って、物理的に高速道路の近くにあったとしても高速道路を走ってる車にとっては近くない。だけど、高速道路も道路によってそれぞれ違う雰囲気を纏ってるんです。違う場所を走ってるんだからあたりまえ体操かもしれないけど、ただの道路じゃないんです。東北道東名高速は全然雰囲気違う。だから高速道路の移動だって決して点と点しかないわけじゃない。そこには線がある。土地と繋がっていないかもしれないけど高速道路という現実世界から隔絶された一つの世界の中でちゃんと線の上を通っている。と、思う。

 

6月の最終日であった昨日は母親と二人で小田原に行きました。言うまでもなく車です。東関道から湾岸線、首都高台場線、銀座線を経由して渋谷の方から東名に乗り、小田原厚木道路で小田原へ。台場線の眺めは何度見ても格別ですね。東京湾岸地域に住んでいてよかったとこういう時に強く思う。

今まで高速道路に乗った距離と路線の割合を出すなら圧倒的に9割くらいは東北道を走っています。東北道のことなら浦和から青森まで、上りでも下りでも何でも聞いてください。目隠しされていきなりぱっと景色を見せられてもだいたい何県のどのあたりにいるか答えられるくらいには慣れ親しんでいます。それだけに久しぶりに乗った東名は東北道との雰囲気の違いをはっきりと感じられたのかな。あんまりうまく言えないんですけどね。

地元に帰ってから地元のイオンに寄って母親が食料品を買っている間に本屋をぶらぶらしてました。好きな作家の本でまだ読んだことのない本を3冊と昔読んでずっと忘れられない本を1冊買いました。読んだらまた感想を書きます。

 

 

厚いデータとリコメンデーション

 

本日もバイトでした。こいつ毎日バイトしてない?って思うじゃないですか。それ主婦パートの先輩にも言われました。主婦パートって完全にもうその仕事を生活の足しにしてる人ですよ。週5勤務で時給私の3/2くらいもらってますよ。かたや同職種内最低賃金学生バイト風情の私。どないなっとんねん。

ちなみに数えたら6月は15日出勤してました。

どないなっとんねん。6月は全部で30日やぞ。

 

まあ6月の出勤日数が異様に多いのにはちゃんとしたカラクリがあるんですが、詳しく書くと社外秘の漏洩になるのでやめておきます。俺はまだ死にたくない。

 

毎日バイトばっかりしてるのでネタがなくなってきました。教養のある人になりたいとか言いながら結局昨日は小説を読むでもなく、自分の過去記事を読んで気に入ったやつをツイートして人目に曝すオナニーしてました。卒論のデータ収集は1回につき数時間かかる上に2回に1回失敗するしあまり芳しくない。

そういえば昨日、自分の書いた偏差値2の短歌をまとめた記事をツイートしたらそれを見たサークル同期が自分と趣味が合うかもと言ってその子の好きな歌人や歌詞を薦めてくれました。前に江國香織さんの『すいかの匂い』を薦めてくれたのと同じ子です。今回のおすすめもまあばっちり好みドンピシャで、素直にすごいな~と思いました。ありがたい。自分の世界を発信し続けていると自分の好きそうなものをおすすめしてもらえる世界線に生きてます。私、そこそこ恵まれてません?

同じ好みを持った人の好んでいるものは高確率でその人も好むだろう、というのはちょっと考えればあたりまえ体操な話ですが、これをアルゴリズムでやってしまうのがリコメンデーションシステムですね。ちなみにCiNii Articlesで検索するとリコメンデーションシステムよりも推薦システムの方がヒット件数が多いです。推薦システムっていう訳語が日本のそれ系の業界のスタンダードなんでしょうね。私はどっちでもいいですけど、卒論でこれをテーマにしています。ツイッターから何やかんやデータを取ってきてリコメンデーションに活かせないかな!?みたいな、コードが書ければ小学生でもできそうなテーマです。サガミオリジナルよりも薄い。向こう側見えそう。

あまりアカデミックな方面に適性がないのでなんと思われようと卒業ができればいいです。

リコメンデーションシステムには二種類あって協調フィルタリングとコンテンツベースフィルタリングというものがあります。どういうことかというと協調フィルタリングはそれこそ「この商品とこの商品を買った人はこんなものも買っています」っていうやつ。コンテンツベースフィルタリングは名前からして予想がつくと思いますが、コンテンツの属性からコンテンツ同士の距離を出して「このコンテンツとこのコンテンツは似ているのでこれが好きな人はこれも好きでしょう」みたいなやつです。たぶん実際は組み合わせて利用されていることが多い。まあ詳しくはググってください。

両者の弱点はそれぞれ、協調フィルタリングはまだそのシステムを利用したことがない利用者に推薦ができない(その人の好みがわからないため)こと、コンテンツベースは属性値の出し方が難しいことだったかな。後者はちょっとあやふやです。多分間違ってますが許してください。私が卒論で扱うのは協調フィルタリングで、オーソドックスに2次元行列を作ってクラスタリングします。よっ王道~!

それで好みが似ている人を見つけるみたいな意味でツイッターを使うんですけど、自分がさっき書いたような「おすすめ」をされて思ったのは、こんなにピタッと自分の好みにはまって感動するような推薦て簡単に処理できるような薄いデータじゃ実現できないんじゃないかなあってことなんですよ。確かにAmazonでこんなもの欲しくないですか?って言われたら欲しいねってなるんですけど、正直あれ買ったことないんです。わあいいね、確かに欲しいかも~って思って終わり。当たらずとも遠からず、そしてこの場合「当たらず」ってところに問題がある。

私にお勧めしてくれた子みたいに、「前からrnxちゃんが好きって言ってたいろんなものとかrnxちゃんの短歌とかから自分と好みが合うんじゃないかと思ったんだけど」っていう推察をするのって、それに至るデータを集めるのって難しくないですか。人間そんなに分かりやすくないですよ。「合うんじゃないかと思ったんだけど」たって、必ずしも同じものを多く好んでたわけじゃない。同じようなものを好きなんだろうなと感じられたからあの推薦に至ったわけです。それって本当にアルゴリズムで再現できるのかな~。まあ完全に無理じゃあないと思うんですけど、一筋縄ではいかないですよね。

 

そういうこと考えると、「人工知能が人間の仕事を奪う」「人工知能が人間を支配する」とかありえんでしょってなる。たぶん、ちょっとでも人工知能的なものの片鱗を勉強した人なら同じことを思うんじゃないかなあ。

人工知能人工知能たらしめるのは、生身の人間による実世界の精緻な観察とそれによる推論ですよ。人工知能ができるのは計算だけです。

コンピュータは未来永劫、中国語の部屋を出られないと思うんです。

 

私の人生の中でもっとも幸運だったと思うことの一つに、茂木健一郎さんと数十メートルの距離に接近したことがあります。1時間あまりの講演をリアルタイムで聞いたこともあります(残念ながらこちらはビデオ中継でしたが)。茂木さんの話はとても刺激的で、自分が大学で興味を持って学んできたことが未来に繋がっていく感じがビシビシして、全身に鳥肌を立たせながらひたすらにメモを取っていました。後から聞いたら周りの学生は「難しすぎてあまりピンとこなかった」と言っていた人が多かったので、私こういう方面にちょっとした適性や興味があるのかなあと思ったり思わなかったり。

一番心打たれた部分、そして茂木さんのあの時の話の本質の部分をちょっと書きます。

人工知能は人間よりも速く正確に判断ができる。でも判断の基準を決めることはできない。基準を決めるのはあくまでも人間。トロッコ問題の答えを人間が定めれば、人工知能はその評価軸に従っていくらでも大量のケースに対して処理を行うことができる。が、あくまでもトロッコ問題の答えを定めるのは人間。これから人間の仕事は評価軸を定めることになっていくし、今話を聞いている君たちがそれをリードしていくんです、そうでしょ?

だいたいこんな感じです。ちょっと泣きそうになった。評価軸を定める。帰り道、口の中で何度もその言葉を反芻しました。

今の私は多分にあの時の経験の影響を受けていると思います。果たして私は評価軸を定める人間になれるんでしょうか。社会に大きな影響を与えたいとまでは思わないけど、自分の評価軸くらいは自分で定められるようになるといいですね。技術も、環境も、所詮は道具でしかないのです。

 

そんなわけで私は自分の卒論がめちゃめちゃお遊びじゃんな~と思いながらしこしこデータ集めてます。そうは言っても、別に乗り気じゃないわけじゃないですよ。言葉は悪いけどウケがいいし、PythonやRと格闘した経験はこれからの仕事で絶対に役に立つので。

乗り気じゃないわけじゃないから、PythonとTwitterAPIには本気出してほしいんですけどね。なにぶんデータ量が大きいので、生まれたての赤ちゃんよりも繊細。謎の理由ですぐ止まる。(指摘される前に書いておきますが、情報工学科卒の先輩に手伝ってもらってちゃんとtry-exceptを入れています。このPythonは私よりも生きるのがうまいんです)

 

明日で6月も終わりですね。6月の幕開けは一年前に第一志望だった御社の二次面接でした。懐かしくて寂しくて雨と一緒に涙でも流しちゃいたいなって思いますが、そういえば祈られたからって泣いてないですね。今更泣くわけにもいかないし。

あれからもう1ヵ月なんて早いなあ。

私は私なりによく頑張ったと思います。それを他者がどう評価するかはまた別の話。就活も、バレエも、バイトも、人生全般において、私は頑張っている。評価するのは他者なので頑張るイコール褒められるにはなりません。時には評価されたかったらもうちょっと頑張ろうねみたいになることもあるし、それは受け入れるべきですが、まあ私は私で頑張った、ということで。

 

ちょっといきなり右手小指側が痛くなったのでやめます。

 

 

 

 

 

持て余す暇があるなら旅行行け

 

バイトは基本的に9時から18時、ないし17時なのでバイトがあると日中バイト以外のことはできない(勤務中に休憩室でPythonを動かすことはできるね)んだけど、バイトがなかったところで何をするってこともないんですよね。まあそれが今なんですけど。

今の私がやりたいこと、やらなきゃいけないことって卒論、バイト、バレエしかなくてバイトがない時は当然バイトしない、バレエもそんな日中まるまる使ってやるもんではない、となるとこういう時間を卒論に使うべきである、となります。なるんですけど、卒論も今の時期はデータ収集だけしてればよくて(って教授が言ってた。信じてるよ教授)、データ収集っていうとPythonを動かして数時間後に出来上がったデータを保存してまた別のデータを収集して、ってことしかなくて暇にならざるを得ない。

いやマジで何するよ、この時間。

何か有意義なことをしたいな、と思います。その前に洗濯終わった服を積んでおくのやめようとか要らないもの捨てようとか色々あるんですけど、今そういう話してないんだよなっていう。服とかどうでもよくない?要らないものとかどうでもよくない?燃やす?

こういう時に安易に資格取得とか考えちゃうんですけど、めちゃめちゃつまらないなって思います。確かに勉強は暇を埋めてくれる便利なツールだけど、資格取得って必要になったらクソ忙しい時でもできちゃうじゃないですか。わざわざ暇なときにやることじゃないと思うんですよ。もったいなくない?学生時代にめちゃたくさん資格取りましたみたいな人に出会ったら、他になんもやること思いつかなかったの?ってなっちゃう。

さりとて他に思いつくこともないから簿記のテキスト抱えてブログなんか書いちゃってるんですけどね。でも教養がある人になりたいので、アニメでも小説でもいいから何か物語に触れたり、なんか難しい本とか読みたいなって思います。社会学でも法学でも倫理学でもいいから、人文科学をちゃんと学んだ人になりたい。あ、図書館情報学はもういいです(そもそも図書館情報学ってかなり実学寄りでちょっとうんざりさせられるし)。

 

机に向かって生きてる人って何かを生み出すことはできないなって思います。自分の肌で目で日々自分にとって新しい世界を体験して、感じて、考えてってしてないと自分だけのものって何も生み出せない。だってインプットがなきゃアウトプットができないじゃないですか。誰かが知ったことだけ吸収してそこからオリジナルを作り出すってつまり無から有を生み出すってことですよ。神様じゃないんだからそんなことできないでしょ。

机にずっと向かってると感じたり考えたりする能力というか、人間としての感度がどんどん落ちて行って落ちたことにすら気付かないんですよね。私なんかバイト出勤すると人間スイッチを切っちゃうので、働いてる間は「この世界にお客様対応より楽しいアクティビティは存在しない」って本気で思ってるんですけど、この間自転車で羽田空港行った時ありえないくらい感動して「イエ~~~~~~~~~~!!!!!!!!めっちゃ楽しい~~~~~~!!!!!!」ってなって、なんだお客様対応より楽しいことっていっぱいあったじゃん、こういうことたくさんしないともったいないじゃんって久しぶりに思いました。でも羽田空港行くまでそんなこと思わなかったんですよ。本気でずっとバイトしてたいって思っていた。恐ろしくない?

たぶん私は気を抜くとすぐに人間スイッチを切っちゃう人で、切ったままでもずっと生きてられる人間なんだろうなと思うので、生きてる感覚を忘れないためにいろんな体験をしたいと思ってます。色んな場所に旅行に行きたい。北海道、五能線、四国、中国、九州。北陸とかも楽しいだろうなあ。幸いにして不思議なことに自分の貯金がたくさんあるので、本当にストイックにあちこち回りたいと思ってます。あまりこだわりがない人間なので旅行の同伴者としてホモサピエンスを求めている人がいたらぜひ声をかけてください。

 

そうこうしているうちにうんこしたくなってきたのでここらへんでやめてうんこしてきます。

 

それでは。