布団大好き!

日記や所感など

新緑

 

2018年3月29日、晴れ。最高気温は20℃を超える。

今日はワキ・VIOの脱毛2回目と手足の脱毛の1回目なので千葉に行く。千葉に行くのにあまりギラギラのお洒落していきたくないので前に古着屋で買った少しゆるっとしたワンピースを着ていこうと思ってるけど、お洒落してってペリエで服を見るのも良いかもしれない。

雨がやんだ途端に一気に春が来た気がする。今まで咲いていても重たくて暗い春の雨のベールに包まれて自己主張できなかった桜の花が、柔らかい陽射しを存分に浴びて口々に歌っている。春だよ、春が来たよ、と。

 

運転免許を取った。18歳で取った人に比べれば遅いけど、普通車ATだけど、それはそれ。黄緑色の免許証を手にした時は、自分が予想していたよりもずっと嬉しかった。

雨が多かったこの春休みはずっと地元の教習所に通っていた。合宿に行く選択肢や、母の実家のある青森の教習所に通う選択肢もあったけど、バレエを休みたくなかったので地元に通うことにしたのだった。特に第二段階に入って路上で教習することになってからは雨ばかりで、良い勉強にはなったけれど、なんと卒業検定の日まで雨だったのだ。そして雨が上がって暖かく晴れた日に免許証を手にすることができた。こんなに出来すぎた絵が他にあるのだろうか?雨が終わったことで、本当に教習が終わったんだと実感してしまった。

本当にずっと教習所にいたので教習のことをやけに鮮明に覚えている(もちろん学科教本は隅から隅まで暗記した)。記憶に残っている教習や教官のことをメモしておく。たぶん一年後には忘れていると思うので、その頃に読み返したら面白いと思う。

 

・切り返し

切り返しというのはあの切り返しのことである。卒業検定で4回やると検定中止になるあの切り替えしだ。第一段階でSクランクを教わった人の一人に第二段階での方向変換を教わり、両方で切り返しの指導をされたのでこのYさんは私の中で切り返しの人という扱いになっている。

比較的要領が良く切り返しなしで成功しまくっていた私に丁寧に切り返しを教えてくれたこの人に感謝している。なぜなら教習では成功しまくっていたクランクは修了検定の時に接触してしまって切り返しが必要になったし、自宅の狭い駐車場に駐車するとなると切り返しをしなければいけないだろうから。この人はとても面白くて、だから私もよく話を聞いていたんだけど、切り返しちゃんと聞いといてよかった。

 

・観察教習

観察教習の教官には実は中間みきわめといくつかの学科でもお世話になっている。観察教習は3時限連続なのでめちゃめちゃウマが合わない教官に当たったらどうしようと思っていたが、特に威圧的でもなくさりとて気さくなわけでもないフラットな人なのでまあまあ当たりだと思った記憶がある。

その日は雨続きの3月の中で珍しく天気が良くて、「コインランドリーふわふわ」とかコイン精米機とか、道端の面白い物をぼんやり眺めながら適当にメモを取ればよかったので楽しかった。私以外の二人はもっと必死になってメモを取っていたけどせっかくのお天気だし自分が運転するわけじゃないし乗り物酔いするし気楽に行こうと思っていた。「指導員はバスを見て早めに安全確認と合図をして追い越しの準備をしたが、バスが発進の合図をしたので合図を消して追い越しをやめた」という私のコメントを見て「rnxさんって細かいルールが好きなんだね。なんかそういう職業向いてるんじゃない。検察官とかになれば?」と半笑いで言うので面白かった。検察官って司法試験の上位合格者がなるのに、こんな学科教本隅から隅まで覚えたくらいでイキってる文学部生がなれるわけない(笑)

他に教習生が2人いたこともあって自分の運転は上手くいった。たぶん。危険予測ディスカッションで他の2人はそれぞれ「右折時対向車が見えていなかった」「AT車はブレーキ踏まないと減速しないんだよ」とか色々言われていたけど私は「rnxさんはまあ、ほら、○○さんがいっぱい褒めてくれてるからこのコメント読んどいて(笑)」だけで済まされ、なんか言えよ!と思ったね。突っ込みどころの多い教官だった。

 

・自主経路

地図に書き込まれたスタート地点とゴール地点を見て経路を設計してその通りに進む教習。3コースあるんだけど、全部自宅とバレエスタジオの辺りだったから余裕だった。これは地元の教習所にしてよかったと思う大きな理由の一つ。

自主経路の2回目の教官はマメで優しい人だった。第一段階のSも教わってたんだけど、私の原簿を見て「一緒にSクランクやった以来だね!覚えてる?」と教習の最初に声をかけてくれた。向こうは覚えてるわけないと思うけど、やっぱりそう言われて悪くは思わないので、こういうテクニックは塾講アルバイトとして見習いたい。

この人とのコースはhnm川沿いの横断歩道近くからスタートしてkmhm駅に向かうカーブを通りingkgn駅方面に向かう道を左折して道なりに右折してGS近くまで行くコースだった。とにかく馴染みのエリアだったので知ってる道を通ろうと、転回したり住宅街の中を突っ切ったりするルートを設計する私に「知ってる道じゃなくて走りやすい道を選ぶんだよ。もっと簡単な道があるよ」と指導してくれて、しかもコースの分かりやすい覚え方まで教えてくれたので感動した。

あまりに教えるのがうまく人当りがいいのでこの人の話し方や教え方を真似たら教え子からのウケがびっくりするくらい良くなったのですごい。真似たポイントは、

・積極的に褒める。当たり前のことでもできたら褒める。合図、右左折、車線変更、などなど。褒められて悪く思う人はいない。

・説明が終わったら相手の理解度を測る。その際に「何かわからない事あった?」じゃなくて「もう少し説明欲しいところあるかな」という言葉を使っていた。うまく言えないけど後者の方が聞きやすかった。

・することの見通しを言う。「今日も自主経路だよ。今日は前回のゴール地点から出発するコースです」みたいな?目的が明確になったので良かった。

・注意するときはやんわり優しく、でも具体的に。出来た所までは認める。「今の右折は交差点の中央まで行けてたけど、直前の寄せが少し遅かったね。それって工事現場に気を取られて合図が遅れたからじゃない?だから次回は適切タイミングで合図できるようにしようか」とかそんな感じ。

・教習の終わりには出来た所を褒める。「ミラー見て合図出して目視して、動いて、っていう車線変更の流れはすごく上手かったよ!苦手だって言ってた左方向変換も今日はできてたし、この調子で頑張ってね」この一言があればその一時間ものすごく頑張れた気になるので生徒のやる気を引き出せるんだなあ。

あと、その人が当たり前のように教えてくれた「ミラーと番号札を合わせる時にハンドルに目線を合わせる」って今まで誰にも教わってなかったので、当たり前に思えることでもとりあえず説明した方がいいんだなって思った。

 

・高速教習

教官はどちらかと言えば馬が合わない人だったけどスピード出してぶっ飛ばすのが楽しかったのであまり気にならなかった。本当に気持ちよかった。

私が何の躊躇いもなく80や100出して「これが100㎞/hです。どうですか?」と聞かれても「まあこんなもんかって感じですね」とか答えるので教官も言うことがなくなっていて面白かった。高速、スピード出すしかやることないもんなあ。

両親がスピードスターすぎて今まで高速の法定制限速度140㎞/hだと思っていた話を切り返しの人に話したら「140㎞/hで事故ったらたぶん生きて帰れないですね~」と引き気味で言われた。おっしゃる通りであるとしか言いようがない。私は絶対に140㎞/hなんて出さない。

 

・特殊項目

地域特性に応じた項目。イヲンモール前の片側4車線道路の右折だということは知っていたので楽しみにしていた。

特殊項目の教官は今まで学科でよくお世話になった人だった。体感だけど3割くらいはこの人に教わった気がする。生徒に話を振ったり質問したりと参加型に近い授業をする人で、どんなに頭が悪くてやる気がない生徒もすくい上げて授業に入れこませるという強い気持ちと工夫を感じた。

そういう教官だったので一度は技能も当たってみたいと思っていたら一番楽しい項目で当たってラッキーだった。あんなに面白い人と延々縦列駐車なんてやることになってたら泣くわ。学科の授業の工夫のこととか話してくれて、私は個別指導講師なのでその教え方自体は直接の参考にはできなかったけど、何か自分の理想にできるようなモデルを見つけてそれに寄せていく、という方法は教えることに限らず役に立つと思う。あと、陸橋に続く道に出る前に話してくれたプライド高すぎる教習生の話が面白すぎて、合図忘れそうになるくらい爆笑した。

右折から戻るFホテルのあたりで50メートル先のバスをよけようと合図を出していたら信号を見落としていて思い切り補助ブレーキを踏まれた。「上手く避けられる、上手くやろうみたいな意識があったよね。技術は確かにあるけどそういう意識が先に立ってるから、基本に足を掬われないようにね」全くその通りである。私には安全運転したいという意識と同じくらい上手く運転したいという意識がある。みきわめや卒業検定では緊張していたしとにかくパスすること優先だったから大丈夫だったけど、車に慣れたらきっとこれが私の悪い運転傾向に繋がると思うので、いつまでも謙虚にいたい。

あとは何だっけな、左折時や停止時にもっとゆるやかに止まった方がいいとも言われた(それまで私の左折や停止は2回に1回はリュックが下に落ちるくらい荒かった。ヤバい)。あまりにブレーキが甘いので「マニュアルっぽい走り方だよね。審査受ければ?」とまで言われた。何なら他の教官にも「それだけ飲み込み早いならマニュアルにしとけばよかったのに」と言われたけど、ATで教習してもブレーキ不足になる人がMTで教習してたら卒業してからヤバすぎるでしょ。それはそれとしてMTかっこよくて今更羨ましくなったから審査受けたい。

ちなみにこの人には総合みきわめもやってもらった。その頃メンがヘラっていて、一人で運転するのが怖くて、「免許取りたくないです」と半泣きになりながら教習を受けたけど、特殊の時に注意されたことは全部できるようになっていて褒められみきわめ一発良好だった。本当に泣きそうになりながら地図を受け取り、ずいぶん励ましてもらったけど、免許取った今さっさと運転したくてしょうがないのであの時励ましてもらったの謝りたいくらいだ(笑)運転怖い><なんて言ってた私は免許センターに置いてきちゃいました~~~~~~~^^待ってろよ東北道^^

 

そんな感じでなかなか楽しいことも多かった教習だったのでした。ちなみに嫌いな教官も数人いたけどおめでたいことに急速に記憶が薄まっているのでこのまま忘れます^^

とにかく教える技術って様々なんだなあと思った。今まで私が10年触れてきた教え方は生徒にやる気と理解力があることが前提で、授業のリズム感や与えられる知識の量を重視した教え方だったので、どうしても自分の教え方もそれに近いものになりがちだった。けど教習所の生徒は年齢も学生の偏差値もバラバラで、そんなに難しい内容ではないにせよ全員にある程度の知識と技能をつけなきゃいけないので、より幅広い層に対応した教え方が意識されていた。もちろんテンポと情報量!みたいな学科をやる先生もいたけどね。バカへの教え方で一昔前の教官のイメージみたいにとにかく厳しく教えて叩き込むみたいなのももちろんあるんだと思うけど、特にSクランクの人、特殊項目の人みたいな教え方なら怒鳴らなくても生徒に言うこと聞かせられそうですごい。

「学科はキャラ作ってくけど技能はマンツーマンだから生徒に合わせて言い方とか変わる」って言ってた特殊項目の人、今から思えば完全に「中途半端に自信だけある人向けの注意」って感じの教え方だったの笑うわ。

 

そうこうしてるうちにもうすぐ春休み終わっちゃいますね!まだ10歳みたいな気分なのにもう大学生活折り返しでヤバいなあ。

 

 

トラブルレポート

 

ここ一週間近くずっと憂鬱な気分が続いている。朝起きた瞬間から食べている時も歩いている時もバイトしている時も肋骨全体を太いゴムバンドで絞めつけられているような感じがする。空気が薄い。私の周りだけ酸素の濃度が4%くらいしかないんじゃないかという気すらする。

 

たぶん憂鬱な気分の一番の原因は教習所の卒業が近づいていることだ。免許センターに行ける日はもう少し先だけど。卒業してしまうともう補助ブレーキを踏んでくれる人は誰もいなくて、自分が一人のドライバーになることが怖い。

今までずっと運転には自信があった。たぶん適性があったし飲み込みも早かったし指導員の質も高かったんだと思う。指導員のアドバイスより一拍早く行動を起こすこともままあった。指導員の指導を疎ましく思う瞬間もまあ、あった。それでも、どんなに高圧的な指導員でも、隣に乗っていてもらってどこかで安心していたんだと思う。本当に誰にも補助ブレーキを踏まれないのかと思うと(実際はめったに補助ブレーキなんて踏まれていなかったのに)怖くて、つらい。卒業検定に落ちることよりも受かることの方が100万倍怖い。

 

あともう一つはバレエだ。最近分かったのだけど私はずっと小学校の頃をやり直したくて、あわよくば続きをしたくてバレエに戻っていた。私の目の前の道は小学校の頃と同じく、何もなく、ただ刹那的に目先のバレエを楽しんでいる。問題なのは小学生の頃と同じようにはいかないこと、自分がもう小学生ではないことを随所で思い知らされることだ。しかも私には時間がない。もうタイムリミットがすぐそこまで迫っているかもしれない。

大人のバレエだからとおしゃれなヨガくらいの感覚でバレエを楽しめたらきっと楽だ。周りからは私もそう見えるに違いないけど私の中では絶対にそうじゃなくて怒られて褒められて劣等感を抱いたりしながらも一つのステージにたどり着く、スポットを浴びる、そういったことがたぶん心の底から好きなのだ。

バレエに未来が見えないからといってやめるべきではないと思う。なんにせよ私はどうしようもないくらいバレエが好きで、幸か不幸かその気持ちに真正面から向き合うことができているのだから、できるうちに全力で取り組んだらいいと思う。苦しくても、つらくても、そんなに好きならやったらいいじゃない。そんなに好きなものに出会えたならわざわざ手放すことないじゃない。そうだ。もう一度逃げることだけはしないと誓って再開したのだから、自分の意思で手放す時は世界中の誰に向かっても胸を張って言える理由で手放すのだ。

今はまだ苦しむ時だ。ずっと苦しいままかもしれない、何も得られないかもしれないそれでも、まだ止める理由がない。だからまだしがみつかなければいけないと思う。

 

たぶん苦痛を知覚することがなければどんな痛みにも耐えられる。というか、それは痛みではないのかもしれないけど。傷が見えなければないのと一緒なのと同じように。傷に気付いた時に痛みを感じてしまったことを嘆くか傷に気付くことができたことを何かに生かすのかは自分次第だ。ただ痛がるだけの人にはなりたくない。なってはいけない。知ったことを何かの役に立てる、それは責任のようなものだとも思う。

 

まず今一つだけ願いが叶うなら卒業検定に落ちてしまいたい。

 

 

個別指導講師のバイトをしていると色んな子供に出会う。指先が荒れている子は精神的に年のわりに少し未成熟だったり、不安定なところがあることが多い。爪をはがしたり指先の皮をむいたりしてしまう子は大抵そうだ。だから指先が荒れている子を見ると少し胸が痛くなる。

かく言う私もゆるやかな自傷行為を繰り返してきた。髪を抜いたり指先の皮をむいたり頰や脚の皮膚をえぐってみたりとバリエーション豊かな広義の自傷である。ちなみにオーソドックスなリストカットはしたことがない。しようと思ったことはあるがノーカンの範疇である。これは昔の自分に感謝感激雨嵐ってやつだ。

最近は情緒不安定になったら自分の外に注意を向けるようにしている。掃除をしたりナンプレをしたりソリティアフリーセルをしたり。ブログを書くのもその一環だ。それでもどうしようもなかったら寝る。アイネクライネなんかを聴いて泣いて寝る。

もっと情緒の安定した人間になりたい。すぐ病むのやめたい。凪のような心でありたい。川を見ると飛び込みたくなるのをやめたい。

どうしたら情緒的に安定する?忙しくても暇でも病むものは病む。今現在の状況を赦せるようになると過去が赦せなくなる。

私が自分を大切にできないことが一番ダメなんだ。かわいがってばかりで、大切になんてしていない。撫でているだけだ。甘い水で根腐りしても私は植物と違って死なない。

自分を大切にしたいので中途半端だけど寝ます。

 

晴れ

 

春休みはおおむねずっと家にいた。家と教習所を往復して、週2日バイトして、残りの時間はバレエの発表会のDVDを見ていた。

あと数日で教習所は卒業だ。適性検査結果に反して運転に優れていた私なので卒業が遅れることはまずないだろう。学科試験もほぼ満点、車線変更も右左折転回も駐車も完璧。もちろん指導教官のお陰であることは言うまでもない。

敢えて指名制度も忌避指名制度も使わなかったが、当たりの指導員は本当に当たりだった。どれくらいすごいかというと、当たり指導員の語り口を真似してバイトの授業をしたら生徒から大ウケだった。彼らのあの人当たりの良さはどこから来ているんだろう?人に教える仕事が天職なんだろうなという感じはするが、自動車教習所だけなんてもったいないと思った。もっと評価されてほしい。ひとまず私は見習いたい。

 

都内にあまり出ない生活は移動時間のロスがなくなってゆったりしていた。お陰で考えすぎるくらい考える時間を持つことができた。バレエのこと、今までのこと、これからのこと。煮詰まってどうしようもなくなったら掃除機をかけた。家中の隅から隅までほとんど毎日掃除機をかけていたら家の中がやけに綺麗になった。それでも心が晴れない日もあった。

私がいなくなってからの発表会を6年分くらい見た。それからまた私が出た最後の発表会を見たら今までにない感情が湧き上がってきた。今まで意識していなかった「私もその上の学年も小学生だ」ということを強く感じた。つまり今までは年齢を意識せず、ずっと心の中に張り付いているものとして見ていたけれど、それらがすべて過去のものだということをようやく実感できたということ。すべて過去のことだった。もう終わったことだ。私はまだ過去から目を話すことができないし、どこへ向かえばいいのかも分からないままだけど、それは大きな収穫だったように思う。たぶん、バレエから離れていた10年間を心の底から肯定することができれば終わるんだと思う。そう、お分かりだろうか。私はこの期に及んで、まだ過去にこだわっている。

 

 

江國香織『すいかの匂い』を読む

 

せっかくの春休みなので人に薦めてもらった本を読むことにする。薦めてもらった本の中で立ち寄った本屋に唯一置いてあった『すいかの匂い』。怖いもの見たさで読んでねと言われてディープな恋愛ものを想像してかかったら見事に裏切られる。

「夏」を共通の舞台にした11の短編から成る。大人になった語り手が自身の忘れられない記憶を回想する形の物語である。子供の記憶は実にあいまいで、できごとの背景が分からなかったり、突拍子もないものが強く印象に残っていたり、かと思えば重要な部分が抜け落ちていたりする。そういった子ども時代の記憶の不正確さが実際以上にその記憶を恐ろしく、特別で、鮮やかなものに見せる。そういった印象を受けた。

全部そこはかとなく後味が悪い。グロでもホラーでもないのに少し奇妙な雰囲気で、なんとも言い難いものがある。カタルシスの得られなさといったらいいのか、本当に「なんとも言い難い」としか言いようがない。こんな頭の悪い感想しか書けないけど嫌いじゃない。なにより文章がとても好きだ。

特に怖かったのが「水の輪」。これがまさに「子どもの頃の記憶だからこそ恐ろしい」というやつだと思う。もしこの主人公が一人の大人としてこの回想にある場面に居合わせても、特別怖いとは思わないだろう。子供だったからこそ恐ろしく、その怖かったという感情ばかり強調されて記憶されるから恐ろしいのだ。子どもの頃は経験値が浅いから恐怖も驚きも大人の比じゃないということは身に染みてわかっている。

 

文章が好きだと思ったので、特に好きな文章でも引用しようかと思ったんだけど、特にこれという所がないのでやめます。全体的に穏やかな雰囲気の流れる柔らかい文章で紡がれる、暑い日の冷たく恐ろしい思い出の話。同期の受け売りになるけど、怖いもの見たさで読んでほしい。

 

 

poco a poco

 

2月19日、月曜日、たぶん晴れ。部屋の中は暖かい。

今日が何日で、何曜日なのか、意識しないと分からない。日々がゆっくりとしかし確かな速度を持って滑らかな霧のように私をすり抜けていく。私の一日はカレンダーにプロットされた全体の中の一つではなく、体重の増減やフェイスラインの変化、進んでいく自動車教習といった極めて狭い範囲の変遷と比較で認知されている。時間を相対的にしか見ることができない。ふと気付けば何もかも手遅れになるようにできている。

私よりも彼氏の方が私のブログに詳しい。書いた覚えのないことをよく言われる。私が忘れっぽいのか、彼がサトリのような妖怪なのかは分からない。

最近バレエやめたいと思う瞬間が出てきた。どんな瞬間なのかはうまく思い出せないけど、とにかくどうしようもなくできないことに遭遇するとやめたいと思う。ただ一瞬そう思うだけですぐ消えるのでただの嫌だという感情と同じようなものだと思う。むしろ良い傾向だと思う。できないことが悔しい程度には向き合えている。

レッスンの最中にTシャツとショートパンツを身につけるのをやめたら先生が厳しくなった。嬉しい。なんとなく前よりも私が本気になったと思ってくれているような感じがする。頑張ってるねと言ってもらえて嬉しかった。この先どうなるかは分からないけれど今バレエを習えている幸せだけは決して忘れない。

私は褒められて伸びるタイプだろうか。須藤先生はとても厳しい先生だったような気がする。恥ずかしながらもう記憶が曖昧になっている。須藤先生に褒められると嬉しかったがあれは飴と鞭でありDVや洗脳の方法に近いものがあったと思う。少なくとも私は須藤先生が好きだった。暗唱を一回するごとに脳の神経や血管を一つ一つ切っていくような心持ちがした。きっとその神経は羞恥心を伝える働きをしていた。その血管には甘えたぬるい血液が流れていた。そういったこれまでの自分を形成していたもの一つずつ捨てて受験勉強に身を捧げた。あれは不可逆性の変化だと思う。もう私は大学受験をする前の私とは決定的に違う。そういうわけで、私は今でも須藤先生が好きだ。今の私はそういう風に作られているので、これはどうしようもない。許してほしい。(これもまたDV被害者みたいだ。私はまだ洗脳の中にいるのかもしれない。上等だ。)

忘れていないことも沢山ある。御茶ノ水の真っ暗な道、池袋の冷たい空気。あの焦がれるように熱い日々を懐かしく、愛おしく思う。忘れられるわけがない。大好きだ。一生懸命になることは本当に気持ちいい。頭の中がクリアーだった。あれから丸2年が経つ。私は私の人生をどこへ運んでいくんだろう。あの頃私を助けてくれた人たちとまた会えたらいいと思う。もう大日本帝国憲法をそらんじることはできないし、アンチテーゼを日本語訳できないし、英検1級だって落ちるけれど、彼らに胸を張れる自分でありたい。大学名を自慢にしなくちゃいけないようなつまらない人間にだけはならない。

月収100万(額面)くらいほしい。

 

あの舞台の上

 

2月2日、おそらく雪。寒い。

 

このブログは彼氏に読まれている。隠していないので別にいい。

ちなみに彼氏に隠しているブログもある。半年くらい書いていないので、ほとんどないのと同じだと思う。私が覚えやすいIDにしていなければとっくの昔にネットの藻屑と化している。

私はマメなので自分の利用したSNSは使わなくなったらだいたいは責任を持って消している。消せないまま藻屑にしてしまったのはベネッセの運営するSNS、自分のサイト、高校生になってから2回目と3回目に作ったAmebaのアカウント、ピアプロ、昔のpixivアカウント、だ。ネットの海のごみを増やして本当に申し訳ないと思っているが、もはや私の努力でどうにかなりそうなのはAmebaピアプロくらいだと思う。自分のサイトは運が良ければ自動で消えているはずだ。

 

バレエは楽しい。

同じクラスの人の名前をだいたい覚えられてきたし、向こうもたまに私に話しかけてくれるようになった。身体もだいぶ動くようになってきた。あと、薫先生は最近、私を呼び捨てにしてくれる。

子どものクラスでは下の名前の呼び捨てが基本だ。だから子供の頃から続けている子はそのまま下の名前呼び捨てで呼ばれる。今の私のクラスは大人になってからスタジオに入った人が大半なので、その人たちは名字か名前のさん付けで呼ばれる。私以外にもう一人だけ子供の頃にスタジオにいた人がいるが、薫先生と同年代なので逆に当時の生徒同士の呼び名、名前ちゃん付で呼ばれている。

私は再開した当初は周りの人との間を取ってなのか、やはり10年ぶりの生徒を呼び捨てにできなかったのか、ちゃん付で呼ばれていた。悪くない。ドキドキした。ちなみに名字さん付けで呼ばれたらショックで立ち直れず、東京湾の藻屑と化していたと思う。最近は私が慣れたので昔のように遠慮なく怒られるようになって、いつの間にか昔のように呼び捨てで怒られるようになった。あの頃に戻れたみたいで、あるいはあの頃持っていたはずの未来を取り戻せたみたいで、とても嬉しかった。人は呼び名ひとつでこんなに嬉しく思えるものなのだ。

あの頃持っていたはずの未来、つまりずっとバレエを続けていた未来のこと。そんな未来はあったんだろうか。小5の頃私は本当に成績が良くて、中学受験をすることは120%決まっていた。だから小4のあの発表会がいずれにせよ小学生で最後の発表会になっていたと思う。では中学に上がってから再開していたらどうか。再開できたんだろうか。物理的にはまあ、できた。たぶん、私が強く望めば、金銭的にもできたんだと思う。うちはお金がないけど、母はそういう人だ。でも、何よりも私にそんな気持ちがなかった。結局のところ自分の意思でやめたことには何も変わりないのだった。

人生でほとんど唯一にして最大の後悔はバレエを止めたことと言って過言でない。

ただ、あの頃の私には動機がなかったのだ。バレエを始めた時のことを正直あまり覚えていない。見学した時のことはぼんやり覚えているけど、「ここがいい」と言った記憶はない(言ったらしい)。ただ気付いたら通っていた。さすがに踊りでセンターになれたら嬉しいとは思っていたけど、東京シティのプリマになりたいなんて露ほども思っていなかった。バレリーナになりたいとは思っていなかった。舞台に立つ楽しさに気付いたのは舞台が終わって10年してからのことだった。だから、うまくならなかったという理由で投げ出したのだ。あんなのは挫折でもなんでもなく、ただの逃げだ。

自分が専科クラスにいる自分を夢見ていることが許せない。自分の意思をとって「たら・れば」を言うなんて言語道断だと思う。だいたい今主観的にも客観的にも幸せなのだから、不平不満を言うなんて贅沢が過ぎる。しかも今のバレエだって十分幸せだ。薫先生を見るだけで幸せな気持ちになれるし、周りと比べて落ち込むこともない。

本当に、いつもはそれで満足している。ただ先生が専科クラスのことを口にするたびにありえなかった未来のことを考えてしまう。私もそちら側にいる、という未来。トゥーシューズで何回でもピルエットできる未来。

全てが欲しいなんて傲慢だ。私たちは無限の選択肢と可能性を持っていて、日々それらを選び、同時に選ばれなかったものを捨てながら生きている。私はバレエを捨てた。何かの代わりに捨てたふりをして、その実ただ自分の思い通りにならないからという理由で捨てた。自分の選択に責任を持たなければいけない。だけど、バレエを続けていたら慶應に入れなかった、なんてとてもじゃないけど考えられない。私は納得する理由を見つけられていない。ただ自分を責め続けることしかできない。いつまでも仮想世界の自分を超えられない。

無駄なことなんて何一つない、という荻野目苹果の言葉は私のモットーでもある。すべてが繋がっていると思う。そうなると、あの時バレエを止めたことも何かの伏線だったんだろうと思う。今こうして後悔していることも、後になって昇華されるのかもしれない。あるいは、後悔は後悔のまま残り続けるけれど、後悔のない人生なんてつまらないじゃないなんて言えるようになるのかもれない。

少なくとも今の私には、道は一つしか見えない。上手くなる。専科クラスに、なんて恥ずかしく、おこがましく、どれだけ突拍子もないことか分かっているので言えないけれど。とにかく、上手くなる。舞台に立つ。これ以上できないというところまで、他に何も考えられないくらい全力でやる。その道を進むことでしか、今の私は救われない。救ってあげたいと思う。何より、薫先生に褒められることがとても幸せに感じられる。

 

本番の舞台の上はとても静かだ。音楽が大きく鳴り響いているし、ライトが熱いくらいに私達を照らしている。それでも、本番の舞台の上はどこよりも静かだと思う。踊り始めの数秒、一瞬一瞬が止まったように感じられる。その時に考えていたのは、不思議なことに、お母さんどこだろう、でも、振り間違えないかな、でもなく、これで発表会が終わるのだ、ということだった。見ている人にとってはこれが曲の始まりなのに、私にとっては終わりだった。その数秒が過ぎると、今度は無意識のうちに体が動いて、気付いたら拍手を受けてお辞儀をしている。発表会の終わりは、至極あっけない。あんなに儚くて、泡のように一瞬で消えてしまうものにこんなに心惹かれるなんて、本当に運が悪かったとしか言いようがないし、本当に幸せなことだと思う。