運命について

輪るピングドラムでは第1話アバンで晶馬、Cパートで冠葉、第2話で荻野目苹果が運命について語っている。

 


晶馬「僕は運命という言葉が嫌いだ。生まれ、出会い、別れ、成功と失敗、人生の幸、不幸。それらが全てあらかじめ運命で決められているのだとしたら、僕たちは何のために生まれてきたのだろう。」第1話アバン

冠葉「おれは運命という言葉が嫌いだ。家族という繋がりなんてくそくらえ(意訳)」第1話C

苹果「私は運命って言葉が好き。無駄なことなんて何一つない、私は運命を信じてる」第2話

 


しかし陽毬の見解は語られない。陽毬のモノローグは第21話あたりまでは基本的にない。

陽毬が運命について言及するのは24話エンディング、乗り換え後の陽毬が失ったかもしれない誰かを思い、高倉兄弟に似た少年がかつて高倉家だった家の前を歩くシーン。

「私は運命って言葉が好き。信じてるよ、いつだって一人なんかじゃない」

これは乗り換え前の陽毬の言葉、あるいはもっと私好みに解釈するならば乗り換え前の陽毬から乗り換え後の陽毬へのメッセージ、あるいは願いのようなものだと思う。運命の輪が切り離され、陽毬と高倉兄弟の人生はおそらく交わらない。それでも、陽毬の心臓で燃えているのは、間違いなく高倉兄弟の愛なのだ。陽毬の生、額の傷、ぬいぐるみ、触れる世界のすべては高倉兄弟の愛の証なのだ。だからいつだって一人なんかじゃない、あなたの心臓には愛の記憶があるんだよと、乗り換え前の陽毬が言っているのではないかと思う。

 

先生と私

 

塾講師のバイトをしているので当然のように先生と呼ばれている。こっちとしては時給1000円ちょっとのバイト程度の責任感しか持ち合わせていないし、持ち合わせる筋合いもないが、自分のこれまでを振り返ってみると「先生」という存在には大きな影響を受けてきたなあと思う。

思い出深い先生の話を書いておく。名前はすべて仮名である。前にも書いたことのある人もいるかもしれないが、仮名の統一はしていない。

 

上野先生

10代前半の頃に受け持ってもらった先生。印象深い言葉は「あなたは自分では気づいていないだけで、実はクラスの雰囲気に大きな影響を与える重要な場所にいる」

当時は自分にそんな力があるとは思えなかったしなす術もなくクラスの雰囲気に飲み込まれ、流されていた。当時を振り返ってみても自分がクラスの雰囲気に大きな影響を与えることができたのかは正直分からない。白昼堂々教壇の上でリストカットなんてしたら確かに雰囲気は変わっただろうが、先生がおっしゃっていたのはそういうことではないだろう。

ただ不思議なことに今の自分にはそういう所があると思うのだ。決して常に目立つ場所にいるわけではないが、私の立ち回り一つでいくらでもコミュニティが変わるとは思っている。そういう立ち位置に意図せずして収まってしまう癖みたいなものがあるんだろうか。だとしたら上野先生の人を見る目には敬服だ。

この先生にあまり影響を受けたとは思わないけどとにかくお世話になったので思い出に残っている。

 

船橋先生

この人も10代前半の頃に出会った。なお現在に至るまで細々と交流が続いている。

船橋先生とは面白いことをたくさんした。あまりに面白いのでここには書きたくない。

印象に残っていることは二つ。角田光代の『対岸の彼女』を薦められたこと、「もっと人を信じなさい、信じる努力をしなさい」と言われたこと。

対岸の彼女』はまったく理解できなかった。最近になって先生にあの時薦められた対岸の彼女が理解できなかったですと言ったら、理解できるわけないと笑われた(なぜ薦めたんだ)。

もっと人を信じなさいという言葉は今でもたまに思い出す。どうすれば良かったのか正直分からない。私はそれなりに人を信じているしそれなりに信じていないところもある。それよりも私のどういう言動や価値観が先生にそう言わしめたのかを自覚することの方が大事な気がするが、よく覚えていないのでそれも叶わない。

 

山梨先生

山梨先生は面白い人だ。斜に構えたところが思春期真っ盛りの生徒にウケていた。私は山梨先生と山梨先生を好む人を傍から見て面白がるという更にたちの悪い生徒だった。

嫌いではなかった。そして山梨先生もまた私をそれなりに気に入ってよく構ってくれた。今でもたまに話すことがある。もしかすると嫌いではないどころか結構好きなのかもしれないが、結構好きだとはあまり言いたくないのが私の悪いところである。

あと構ってくれただけでなく勉強の面倒もよく見てくださった。最初に出会った時は「こいつもうダメだ」と思われていたらしいが受験前には絶対に大丈夫ですと太鼓判を押してくれた。ありがたい。結構好きだしマジでお世話になった。

 

市川先生

人格に与えた影響はさておき、私のライフコースに一番大きな影響を与えたのは市川先生だ。

私は市川先生に心酔して市川先生の出身校に進学した。当時の自分ははっきり言って思考停止したバカとしか言いようがないが、それなりにブランドのある学校なので結果オーライ(しかも私の専攻分野の草分けでもある)。

市川先生とは正直価値観が合わないが頭の回転が良いので話していて楽しい。傍から見ていても楽しいので、一人で二倍楽しめるすばらしい先生である。もちろん受験期に私の面倒を手厚く見てもらったことには感謝しかない。

 

葵先生

私がはじめてバレエを習った先生。ずっと葵先生のスタジオにいるので、手の付け方から首の入れ方まですべて葵先生メソッドである。私にとってバレエは葵先生から習うものなので、葵先生以外から習うものはバレエではない。

私にバレエという世界を与えてくれた神様みたいなものだと思っている。これは崇拝しているのではなくたんに世界を作った人という意味だ。

 

こうして振り返ってみると先生と呼ばれる以上あまり変な振舞いをするのも憚られる。私は生徒に大きな影響を与えるとは思わないし与えたいとも思わないが先生という存在は往々にして強い力を持つものなのだ。怖いなあ。

 

バレエと私

 

気付いたらバレエを再開して一年が経っていた。

この一年はサークルの幹部になったり、就活を始めたり、とにかくサークルに時間を取られ、そうは言っても学業も手を抜けず、バレエ以外のことが忙しくて本当に気付いたら一年、という感じだった。

発表会が終わって半年になる。

一年という節目で思うことは、もうブランクを言い訳にしてはいけないということだ。ブランクがある分体ができていないし、足が弱いし、そこは自覚しなきゃいけない。でも、「ブランクがあるからできなくてもしょうがない」は、再開して一年経った人が言っていいことじゃないな、と。

ありがたいことにこの一年の間、何度か「専科クラスに行かないの?」「十分やっていけると思うよ」と言ってもらうことがあった。専科クラスの子や、前に専科クラスにいた子なんかがそう言ってくれた。

お世辞だと分かっていてもうれしい。そう言われたくて頑張っているところがあるので。

私は小学生の時にやめたバレエの続きをしに来たわけだから、ゴールにあるのは健康な体じゃなくて専科クラスだ。それにはレベルが足りないので、頑張っている。

「私には専科クラスなんてとても」なんて言ってはいけない。自分に嘘をつくのはずるい。私は専科クラスに行きたいと思っているのだから頑張らなければいけない。現状に満足する理由を捏造してはいけない。

頑張ろう、また。これまで以上に。そう思う一年の節目です。

 

森見作品を読む 弐

 

誰にでも、忘れられない夏がある。

(映画「ペンギン・ハイウェイ」公式サイトより)

 

先日『太陽の塔』『きつねのはなし』を買ったのをきっかけに、未読だった「ペンギン・ハイウェイ」の映画と原作に触れることとなった。

まず物は試しにと映画を見て、あまりにすばらしかったので原作をお迎えしてしまった。でも、今から思えば先に原作を読んでいたかったかも。自分の頭の中で映像を作ってから映画を見ればその差異も楽しめるので。

感想は、すごくよかった。綺麗なファンタジーだった。これ以外に言うことはない。

けど、それだけだと1年後の自分に罵倒されるので自分なりにあらすじをまとめ、もう少し詳細な感想を書いておく。なにも頭のよさそうなことは書けなかった。

 

研究熱心な小学四年生であるアオヤマ君はある日、自宅近くの空き地にアデリーペンギンを発見した。突如現れたペンギンに街中が大騒ぎ。彼はペンギンを研究することにした。

ペンギンはなぜお姉さんから生まれるのか。「海」とは一体何なのか。

研究を進め、冒険するうちに彼はある一つの仮説に辿りつく。その仮説が証明された時、彼は深い悲しみを知ることになる。

(あらすじここまで)

 

お姉さんは世界の割れ目である「海」を修復する役目を持っており、そのためにペンギンを生み出す。しかしお姉さんは「海」が収縮すると元気がなくなる。また、お姉さんはペンギンを捕食するジャバウォックをも生み出す。

お姉さんはなぜジャバウォックを生み出すんでしょうね。何かを暗示しているのかなあと思ったけど、なんか考えるのは野暮な気がするのでやめました。ただ、お姉さんは海の向こうからやってきた、海と同じ種類のものなのかなと思ったよ。神様そのものだったのかなあ。

お姉さんはペンギンを生み出すし、ジャバウォックを生み出すし、植物を作ることもできる。まるで神様みたい。

アオヤマ君が色々な仮説を検証し、日々世界を広げていくさまがとても美しかった。映画ではただの脇役みたいになってたウチダ君も原作ではもう少し目立っていて、「人は(主観的には)死なない」という仮説はなるほどと思わされる。

全体的にとてもきれいな作品でした。

森見登美彦さんの作品にこんな世界があったなんてと驚かされる。これは『きつねのはなし』を読んだ時にはまったく感じなかったことだなあ。

 

初秋の読書週間はいったんここで一区切り!秋学期が始まるまでの間、秋インターンのESとか書きます。

 

 

森見作品を読む 壱

ツイッターに書いたもののまとめ。

 

これ言うの1000000000000000回目くらいだけど森見作品は原作もアニメもどちらも素晴らしいけどアニメにする時にいい感じに編集されててそれがまた良くて四畳半神話大系はアニメの方が感動する、原作読んだ後アニメ見たら大泣きしてしまった

手芸部頑張るぞ!→頑張れない、文芸部で頑張るぞ!→頑張りきれない、慶茶会で頑張るぞ!→逃げまくる、という私にとっては救いの物語なんですよ、わかりますか

何かに全力で打ち込むのはとても美しいことで私は全力で頑張る人が1番美しいと思ってる μ'sのみんなが大好きなのはみんなが本気で頑張っていて応援したくなったからで 何も頑張らなかった私はμ'sを応援しながら手に入らなかった青春を追体験していたわけです

でもμ'sになれない人も生きてていいんじゃないのかなと最近思うようになった 何にも打ち込めず惰性と器用さとなけなしの責任感で色んなものを"こなして"来たわけですが、それでも何かの役に立ったことはあったかもしれないし、心の底から打ち込めないことを思い悩む必要はないのかなと思うんですよね

惰性となけなしの責任感が私を構成する要素の99%を占めており、残り1%は廃油かなんかだと思う

 

夏が苦手なのに夏が終わると寂しくなるの、いかにも私の人生って感じなんだよな 生命力の暴力みたいな季節が似合う人間になりたかった どこでどう間違えたら女版・森見登美彦の腐れ大学生みたいになるんだ

 

きつねのはなしがめちゃめちゃ良くて今すぐ本屋に走ってって宵山万華鏡お迎えしたいってなってる。

きつねのはなしもノイタミナがアニメ化してくれないかな…森見作品のアニメって良さがあるんだよな…

有頂天家族のアニメはP.A.WORKSだけど有頂天家族も良かった。特に1作目で大文字納涼合戦にあたって弁天に奥座敷を借りるために西崎源右衛門商店を訪れた時の屋敷の奥の海のシーンが良かった

一番好きなのは弁天が自分が人間だった頃について語っているシーン。

浜も一面が雪にうずもれて、足跡一つない。誰もいない。大きな湖だけがいかにも冷たい冷たい感じで見渡す限り広がってる。自分は本当にひとりぼっちだなあ、淋しいなあと思うのだけれど、誰もいないところを歩いてゆかずにはいられないのね。でもどこへ行くというあてもない。だんだん頭が空っぽになる。淋しいときには決まって、その景色と、その中を歩いている自分を思い出すんだわ。毎年淋しい淋しいと思いながら見ていたものだから、淋しいことと雪景色が一緒くたになっちゃった。

弁天の底にある孤独が一番強く出ていて良い。おそらく弁天は永遠に満たされることができず、誰とも分かち合えない淋しさを狸や天狗との争いに興じて紛らわしていくんだろうなと思ったし、二代目の帰朝の最後のシーンもそれを暗示している気がする

枯れた田んぼも、青々とした竹林も、あらゆるものが雪に埋もれている。…天と地の間にはただひとり我ばかり、淋しさだけがそこにある。やがてひとりの天狗が飛来して地上に手を差し伸べる時、彼女は冷たい冬の空へ向かって、ためらいもなく手を伸ばす――。

このシーンを読むと弁天の根底をなすのはこのやはり淋しさだと思う。誰とも分かち合えない。「だって私は人間だもの」狸であったらだめなのだ、と。本当にこのシーンしんどいな、1作目から分かってはいたけど弁天ってずっと孤独なんだな。

狸であったらだめなのだ、では何だったらいいのか?というのが分からない。天狗だったらいいというわけでもなさそうだし、でも「弁天に必要なのは私ではない」という一節は「他の誰かが必要」という意味にも取れる

 

「毎年淋しい淋しいと思いながら見ていたものだから淋しいことと雪景色が一緒くたになっちゃった。」すごくわかってしまう。このシーンは特に何度も読み返したけど今でもこの一節は心臓を絞られるような気持ちになる。その景色があるから淋しいのか、淋しいことがその景色を見せるのか、混ざってしまう。

同じようなことを『月と世界とエトワール』の白凪海百合様も言ってたな。いつも淋しい、満たされない、なので少女の歌声を奪ってしまうがいくら奪っても満たされない、とか(うろ覚えが過ぎる)。本誌で最終巻まで追ってたけどちゃんとコミックスも買わなきゃダメだ

 

一瞬でそれまでの話とガラッと雰囲気が変わってしっとりする回ってものが好きすぎるな。有頂天家族アニメ第8話「父の発つ日」とか輪るピングドラム第9話「氷の世界」とか。「氷の世界」はそれまでのドタバタ劇から一転、この物語が単なるコミカルファンタジーでないことを観客に肌で感じさせている。

 

アニメ化されている森見作品の端々には主人公達の理解と力の及ばない不思議な闇の世界があるが、その闇の世界の話が『きつねのはなし』だと思った。きっと西崎源右衛門商店の奥座敷や、朱硝子の長い廊下、天満屋の至る世界、李白の電車の隅々に蠢く闇が京都のあちらこちらを人知れず覆っているのだと思う

 

ここ数日じっくり本を読んだり、好きだったものについて考えたりして思ったのは、私はもう中学生・高校生の頃と同じ熱量で何かに感動したり、何かを好きになったりすることはできないんだろうなってこと。

中高生の頃って感情の総量が大きくて本当に色んなものが大好きだったし嫌いなものもたくさんあったし好きなものに対してすごく一生懸命だった

今は嫌いなものがほぼないかわりに新しく何かを好きになることもあんまりない

なので中学生の頃に経験した感動を超えることは多分もうできないんだと思う

『九つの、物語』を超えるほど好きな作品にはきっと出会えないし、あの頃自分のことのように感じた弁天様の孤独を、今は少し懐かしさの混じった目で見ている自分もまたいる

私は今でもそれなりに感傷的な人間だけど昔の方がもっと感情豊かだったしこれからもゆっくりと持ってるものを減らしながらフラットな人間になっていくんだと思う あのエネルギーは一体どこへ行ったんだろう

 

太陽の塔』読み終わったけど、これ良いな…水尾さんとの失恋をゆっくり、回り道しながら、終わらせていく話なんだな。最後の方の数十ページに全部持ってかれてしまった

四畳半神話大系』とか『有頂天家族』みたいに最初から最後までの出来事全部が絡み合って結末に収束していく感じではないんだけど、主人公の日常を積み重ねながら過去と現在を行き来していく中で水尾さんへの思いの消化しきれなさがまざまざと感じられてまたよかった、別の良さがある

 

考えなしにノートPCを買うな

 

残暑の合間に寒さが訪れるこの頃、周りで人がばたばたと倒れている。私も台風にやられている(暑さ関係なし)。お元気ですか。

生まれてこのかた、特に理由もなくMacを使って得意顔をする人々を軽蔑してきた。

というと大げさだが、Macは一部の技術屋にとって良いPCであり他の有象無象は実際のとこをWindowsと同程度の恩恵しか受けていないと考えていた。

こういうことを考えている私は当然Winユーザーで、大学入学時にSurfaceを買った。英米文学専攻に進む予定だったのでOfficeのソフトとインターネットが使えればそれでよかった。しかし二年経って大きな問題が発生する。

私は英米文学とは似ても似つかぬ学問を専攻することになり、文学部のくせにJavaを書き、開発環境としてeclipseを使い、Photoshopで画像編集し、AccessVBAでデータベースを作り、Excelでマクロを動かす生活を強いられている。お分かりいただけただろうか、これらの用途にはSurfaceの廉価モデルはあまりにお粗末すぎた。私はタブレットとして使うでもないSurfaceを鉄の板のように持て余しながらひいこらと課題を片付けている。

この、MacをバカにするわりにWinも使いこなせない私がさらに衝撃を受けたのが先日の火曜だった。ひょんなことからMacを支給されて使うことになった。するとどうか。

速い!!!なめらか!!!!こちらの意図を察知するかのように動く!!!!!

さすがはApple製品といったところか、いやApple製品の中でも格別だと思う。Apple製品は道具の存在感を感じさせないというのが私の考えだが、その最たるものはMacだった。

しかも安い。優秀さと価格とを比べると、実質タダといって差し支えない。考えてもみてほしい。鉄の板を6万で買うのと、体の一部を10万で買うのと、一体どちらが高い買い物だろうか?

あの時10万でMacを買えばよかったとまでは、まあ、言わない。しかしなぜSurfaceにしたのだという思いは抑えられない。これは鉄の板だ。それなりに優秀で、打鍵音も悪くないが、しかし、板である。

 

Winは「優秀な道具」だが、Appleは「身体の一部」なのだ。これがいくら高くても世界中にAppleファンが存在し続ける所以だと改めて感じた。しかし、そんなApple信者の私は、先日の機種変の際はSEを買った。なんということだ、しかし金がないものは仕方がない。がんばって稼げる仕事に就くぞ。